里道工事の最中に丹羽利吉と小川粂三郎によって掘り出された銅鐸は地区の総代、小川幸七によって役所に届けられたものの、地元に下げ渡されたとは前回書いた通りである。

「市史」によれば再び地元に戻ってきた銅鐸は初めは丹羽宅に次に小川宅に、その後は郷倉内に保管先を移したという。

普段は郷倉のなかに納められた銅鐸は「宝鐸如来」としてまつられ、発見日である二月二十七日に公開されることになる。
年に一回の公開日以外には郷倉に納めてあったので見ることができなかったわけだ。

明治七年、現在の東別院で開催された博覧会に宝鐸として出展された。
そしてなぜかその後、東別院に寄付された銅鐸は本山に渡り名古屋から消えてしまった。

地元にあったのはほんの数年。
しかしなぜ消えたのか。

「地元から東本願寺名古屋別院へと移っていった背景には、開帳による賽銭をめぐって地元に何らかの混乱が生じていたことも影響していたのではないか」

消えた理由に金銭がらみの混乱があったことを「市史」は書いている。