玉造温泉の温泉街に鎮座する玉作湯神社には、じつはもう一社、式内社がまつられている。

といっても境内に独立した社としてまつられているわけではなく、本殿に合祀されている。
その神社の名は「同社坐韓國伊太氐神社」
長いし、なぜか韓国が入っているし、そもそもなんて読むのだろう、と思うかもしれない。
初めてこの神社を知ったとき僕もそう思った。
式内社巡りのテキストにしている「式内社調査報告」によれば「オナジキヤシロニマスカラクニイタテノカミノヤシロ」と読むという。
とにかく長いので区切ってみよう。
「同社坐」はオナジキヤシロニマス、
「韓國」はカンコクと読みたいところだがカラクニ、
「伊太氐」はイタテ、
「神社」はカミノヤシロ、である。

布自奈大穴持神社の項で触れたように、不思議な名前の神社が多い式内社のなかでも出雲国はこの手の神社がとくに多いのだ。

これまで見てきたように式内社数では大和、伊勢に次ぐ出雲国だけど名神大社という大きな神社は二社のみ。
それも意宇郡と出雲郡にしかない。
社名に大国主命の別名「大穴持」が入る神社も神門郡の一社をのぞくと意宇、出雲の二郡にしかないし、この変わった名前の神社も意宇、出雲の二郡にしか存在しない。

じゃあ、玉作湯神社に合祀された同社坐韓國伊太氐神社とはどんな神社なのだろうか? 
松江「プチ移住」から帰宅後に購入した「風土記と古代の神々」に「カラクニイタテ神社と新羅」という章でこの神社について解説していた。
それによると従来、当社については様々な解釈が存在していた。

「イタテ=五十猛命説」(千家俊信)、
「イタテ=湯立説」(志賀剛)、
「イタテ=射立=『今来の神』説」(石塚尊俊)

どれもなんとなくそうなのかと思ってしまうけど、著者の瀧音能之氏は社名よりも「出雲国風土記」(以下「風土記」)と「延喜式」が編まれた間の二百年に鍵が隠されているとしている。
つまり天平五年(733年)に作成された「風土記」には「由宇の社」として掲載されていた神社が、延喜五年(927年)に撰上された延喜式にはその名は消え「同社坐韓國伊太氐神社」に変わっているという点に着目。
韓國伊太氐神社創建の時期を八世紀前半から十世紀前半と推測された。
社名につけられた「韓國」は朝鮮半島で、その時代の日本と朝鮮半島(新羅)との関係が悪化したことが神社創建に影響を与えているのではとしている。

具体的に「日本三代実録」の貞観九年五月二十六日条にみえる記事を取り上げている。
対新羅への備えのため伯耆、出雲、石見、隠岐、長門の五カ国に八幅の四天王像を安直するよう命じられた。
四天王寺は仏教からの備えで、神祇的には韓國伊太氐神社を対新羅の備えとした、というもので、「伊太氐」とは「射楯」、つまり防備を意味する神であるとしている。

それにしてもなぜこの神社は出雲国にしか見当たらないのだろう。
先の五カ国には隠岐も入っているが、著者は隠岐は群島であり国家側の意識としては出雲の方が新羅と接しているとされたのではという。

朝鮮半島との距離からすれば隠岐の方が近いし、海岸線は石見のほうが長く、防備なら出雲に限らなくてもと思うのだけど、そこはやはり大社のお膝元という事情が考慮されたのだろう。
とはいえ、この神社については分からない、というのが正直なところではないだろうか。

その後も意宇郡と出雲郡を訪ねることで、この神社に出会うことになる。

写真は島根県松江市。