190518佐為神社出雲路幸1

「日本三大船神事」といわれる「ホーランエンヤ」
松江市内では十年に一度の開催に町中が沸いていた。
「ホーランエンヤ」とは松江城の城山稲荷神社の御神体が船で東出雲町の阿太加夜神社に渡御し、一週間の祈祷をへたのちに再び稲荷社に還御。
その往復の際に、順路に当たる矢田、福富、馬潟、大井、大海崎(五大地)の住人がそれぞれ趣向を凝らして出船する船神事である。
今年2019年は五月十八日に渡御祭、二十二日に中日祭、二十六日に還御祭がそれぞれ行われた。

松江に着いた初日、買い物のためにスーパーへ向う途中、ホーランエンヤ開催と応援企業名が書かれた赤い幟が町の至るところに張られていた。
ただ事ではないと思いつつも、こちらは松江についてほぼ白紙の状態、それが何を意味するのか分からなかった。

地元紙「山陰中央日報」では連日のようにホーランエンヤ関係の話題を伝え、出雲版では祭を支える五大地の人々の姿を連載していた。
その後、松江市内を走り回り、また新聞記事を目にするうちに松江市民のホーランエンヤにかける思いがなんとなく伝わってきたが、いかんせん、僕自身ホーランエンヤ自体を見たことがない。

五月十八日、渡御祭当日の朝。
祭か古社か...逗留先の部屋のなかを行ったり来たり落ち着かない。
かなり迷ったけど結局、古社巡礼を優先させることにした。
回っていない神社が多いこと、当初は石見や隠岐までを回ろうと意気込んでいたが体力的にきつく、このままでは出雲国でさえままならない可能性が出てきたことに一抹の不安を感じたからだ。
渡御祭がだめでも中日祭と還御祭がある、それを見ればいい。
そう自分を納得させて松江駅に向かった。

意宇郡の佐為神社には二つの論社が存在することは先に見た通り。
意宇郡西部の佐為神社、そしてもう一社が松江の東隣、安来市の出雲路幸神社である。

JR荒島駅でFATBIKEを組み立てて出発。
出雲路幸神社は飯梨川の堤防沿いに鎮座する。
裏口から入ってしまったので正面に戻り、改めて堤防から境内に下りた。
下りきった場所に立つ鳥居をくぐり拝殿まで18歩、拝殿の手前には砂の小山が左右に築かれていた。
まずは参拝。

向かって左奥、小高い場所にある摂社にも手を合わせた。
扁額には「佐為高守神社」(ママ)の文字、当社も式内社である。
先に訪れた意宇郡西部の佐為神社は本殿に佐為高森神社が合祀されている。

出雲路幸神社について、「式内社調査報告」によると「道祖神」「出雲路幸神」、地名から「松井宮」と呼ばれていたそうだ。
旧社地は狭井原にあり、後年、天神社鎮座の狭井山に遷座。
それがきっかけとなったのか寛永二年の棟札に「狭井社」という社号が浮かび出てきた。
その後さらに「出雲路幸神社」の棟札が元徳二年に初見。

道祖神と呼ばれ続けてきたことと考え合わせると、狭井原にあったことからサイノカミ(道祖神)として信仰されてきたが同音の幸神に変わり、狭井、幸(さい)つながりで「出雲国風土記」や「延喜式」に掲載されている佐為神社が当てはめられたのではないか、さらに佐為つながりで佐為高森神社までもついてきてしまったのでは...

なんだかややこしくなってきたので頭を切り替えよう。

そういえば、入り口近くに「弁慶腰掛石」と呼ばれる岩があった。
佐為高森神社の小社から裏手にかけても岩が露頭しているから、境内はもともと岩石質なのだろう。
腰掛石の脇に以下の言葉が記されていた。

「久安年中 紀州熊野庄司ノ娘弁吉女 当社ニ賽シ縁結ビヲ祈リ後、良縁ヲ得テ一子ヲ挙グ 武蔵坊弁慶即チ是レナリ 弁慶長ジテ当社ニ賽(礼参リ)シタリト伝ウ」

写真は島根県松江市。

190518佐為高守神社出雲路幸3