式内社であるか否か。

神社の格に関わるせいか、讃岐国の神社を回っているとそのことの重要さを強く感じる。
神社によっては拝殿の軒下に讃岐国二十四社の神社名を列挙した扁額が吊るされているのを見かけた。
たとえ論社があったとしても筆頭に自社のみを記している。

讃岐国の式内社は二十四社だが、「式内社調査報告」では論社についても言及しているので、実際に回るのは二十四社で終わらない。
延喜式が編纂されて千年以上たっているのだから、そのときは普通に存在していてもその後の事情(例えば災害や戦乱など)によっては神社自体が消滅することだってあっただろう。
式内社といわれる神社から勧請したことで、元の神社がなくなったあとにその神社がオリジナルと間違われるケースだって考えられる。
とにかく千年という時間はとてつもなく長いから、その間に神社に何が起こっているかは、分かっているよりも分からないことの方が多いんじゃないかと思う。
だから少しでも式内社と関係があれば「式内」を名乗ってもよいような状況があったのだろうと想像する。

僕が訪ねた讃岐国の神社の一部にはどうにかして自社を式内社に、という熱い思いを感じた。

布勢神社の論社である造田八幡宮は広い境内を持つ神社だ。
当社が鎮座するのは山というか丘の頂に近い場所。

入口近くに立てられた「延喜式内布勢之宮造田八幡宮」には由緒が記されていた。
もともと「和多須美命」を奉斎、造田大明神布勢之宮と呼ばれていたが、光孝天皇仁和二年、京都の岩清水八幡宮より神霊を勧請して以来、相殿に八幡大神をまつるようになった。
境内にはためく幟には「八幡大神」と書かれている。

入口の鳥居をくぐり石段を上がる。
途中、石段横のクスノキの根力で段がせり上がった場所があった。
巨木だけに根の力も相当強いようだ。
さらに石段を上がって拝殿までは175歩。

参拝後、境内を歩いてみると、向かって左手には円形筒状の井戸状の上に「鳴動釜神事斎場」と書かれた場所があった。
「式内社調査報告」に掲載されている解説によると、もともとは旧社地から現社地に移す際の占いが始まりのようだ。
釜の上に乗せた甑のなかに洗米を振り撒き、釜が鳴動するときは祈願することがらを大神が納受した証で、音がないときは大神の納受がなく凶事といわれる。

また、拝殿に向かって右側に鳥居があるのでその奥はどうなっているか気になり歩いて行った。
日陰になった坂道を上っていくと、開けた広場に出た。
神社がまつられている丘の頂に当たる部分なのだろう。
さらに奥まで歩いていくと石祠と神輿などの祭具を載せる台があった。
御旅所のようだ。