■干潟と万博と屋根神さま<上>

 久しぶりの冷たい空気に体がぶるっと震えたものの、空は晴天、しかも日曜日の朝ときている、こんな日は外に出かけない手はない。昨晩遅くまでかけて自転車のパンク修理をしておいたので、お出かけには万全の体制である。さてどこへ行こうかと思案しているとなんだか海が見たくなった。かといってポートタワーに日曜日にひとりで行くのは酷というものだ。インターネットを検索していると偶然、藤前干潟を扱ったサイトを発見した。早速地図とにらめっこすると、筆者が住んでいる熱田区からは十分自転車で行ける距離である。行きは自転車で走り帰りはあおなみ線にでも自転車を乗せて帰ればいいじゃん、という気楽さで、いざ出発とあいなった。

 藤前干潟に行く、といっても筆者に格別環境に対する「意識」があるわけではなく、むしろ干潟というものをこの目で一度見てみたいという思いが強かった。可燃・不燃・資源とゴミを毎日分別している身としては、一度くらいその存在を確かめてもいいはずである。ご存知の通り藤前干潟は、ゴミ処分場を建設する前に反対の声が起こり、計画は断念。そこから名古屋市がゴミ非常事態宣言を出し、現在市内で行なわれている分別回収が始まったいきさつがある。名古屋市民の普段の行いが本当に渡り鳥君たちの休息の地を提供しているのか、確認の旅である。

 家から藤前までは自転車でおよそ40分くらいだろうか。途中最近できたばかりのホームセンターに寄ったり食事したりで干潟到着は午後1半過ぎ。インターネットであらかじめ潮位を調べておいたので(13日は午後1時34分が干潮)グッドタイミングの到着だが、目の前に広がるのは海というよりも一面の泥地だ。これが干潟かあ...。数年前に一度訪れたことがあったがそのときは満潮時で干潟といえど本来の海の姿に変わりなかった。だけど今、目の前に広がるのはまさしく干潟である。

 干潟の手前の堤防には干潟についての説明が書かれた看板が立っている。以前はなかったのでラムサール条約登録後に立てられたのもののようだ。藤前干潟が渡り鳥たちにどのような恵みを与えているのか、それがひいては人間生活にも大きな影響を与えている、というようなことが書かれていたが、干潟そのものについての知識がない筆者には実感がわかない。

 堤防を降りて消波用に積み上げられた石を飛び越して海の方に向かうと焦茶色の泥地には海水はなく辺り一面泥の世界だ。しばらくそこにたたずみながら耳を澄ますと、ぴちゃぴちゃと小さな音が聞こえてくる。音の発生源が何か分からないが、恐らく干潟に住む小動物だろう。ちなみにそこいらの石をひっくり返してみると中から親指の先ほどの蟹が出てきた。泥地の先を見るとシラサギと思われる鳥たちがしきりに足もとを突いている。数は少なかったけど鳥たちがたわむれてる様子を見ることができたから、ここに来たかいがあったというものだ。

 筆者が目にした藤前干潟とは海水の引いた泥地だったが、もしこの干潟がなくなれば鳥たちはもう名古屋に立ち寄ることはないだろう。いや中継地点が消滅するわけだから「渡り」自体が成り立たなくなり越冬ができない、ということになるのだろうか。越冬ができないということは鳥たちは行き場を失ってしまう。となると鳥たちは鳥としての「生」をまっとうできなくなる。専門家ではないので本当にそうなるのかは分からないけど、筆者のような素人でさえそう感じてしまうくらいなのだから、深刻な問題として受け止めなくてはならない。そう考えれば、この干潟を守るために(建て前でも)面倒なゴミの分別を実践する名古屋の人々の行動はすごいと思う。