名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

講演/講座

【講座案内】「西区の屋根神に迫る」西生涯

 名古屋市西生涯学習センターでは「平成22年度前記プログラム」として5月13日より、「西区の屋根神さまに迫る」と題した講座を開催予定です。
 これは一昨年前同様、「なごや学マイスター制度」の一環として開かれる講座で、5月13日の公開講座、申込者を対象とした現地学習等を行います。
 参加申込期限は4月21日までで、すでに過ぎてしまいましたが、公開講座は予約不要ですので、ぜひお出かけください。

【概要】
と き:5月13日〜6月10日
ところ:名古屋市西生涯学習センター(地下鉄「浄心」駅下車)
参加費:無料
内 容:第1回「屋根神とは何? 西区に残る伝統文化」
    第2回「四間道・円頓寺の屋根神」
    第3回「浄心かいわいの屋根神」
    第4回「栄生・枇杷島の屋根神」
    第5回「屋根神の現状」
(第1回は公開講座、第2〜4回は現地学習、第5回は視聴覚室にて開催予定)

※詳細は西生涯学習センター(052-532-1551)まで。

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/最終回/西-19

ー那古野小学校の生徒さんに話をする写真も見せていただきました。
 那古野小学校の先生が、私に尋ねられました。たしか4年生か5年生の子供たちですが、氏子総代をやってみえるので、屋根神さまのことをいっぺん話をしてもらえませんかと。さてできるかな、私もそういったことには慣れてませんでしたけど、でも「よければ、先生、説明させてもらいます」といって屋根神さまの前にお子さんに寄っていただいて、30〜40分説明させてもらいました。その後、作文をいただきましてね、「高橋さん、いろいろと神さまの話を聞かせてくださってありがとうございます。これからは神さまの前を通るときには会釈をして通ります」、そういったことが書かれていました。私の方が教わりましたね。当たり前のことでも小さな子供たちに説明したことによって「これから神さまの前を通るときは必ず会釈して通りたい」という文章をいただき、 十分な説明ができなかったかもしれないけど 、こんな嬉しいことはありません。
ーありがとうございました。
(終)

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/その6/西-19

ーまつっていらっしゃる人数はどれくらいですか?
 箱のフタの内側に書いてある人数、10人くらいじゃないですかね、人数としては今にも中止になるんじゃないか、氏子総代として冷や冷やしている、なんとかほんだで、負担のないように私が考えなかんということです。
ー屋根神さまを維持していくことも難しいと。
 けれども、(山地)先生からもいろいろと話を聞きまして、このことを町内の皆さんにお伝えしたいと、そういう気持ちになりました。だからなんとか続けていきたいなと思っております。(会場から大きな拍手)
ー強い熱意が、守っていくための原動力となるということでしょうか。最後に高橋さんの屋根神さまに対する思いを聞かせてください。
 私は昭和8年生まれなんですよ。小学校5年で終戦です。当時はこの町内から出征兵士を送るための神さんかなと子供心に思っていました。出征兵士の赤紙が来ますと、まず私どもの町内は駅まで送るんですね。そうすると屋根神さまの前で町内の全員が寄って、武運長久で万歳を唱えて兵隊に行かれる方を駅まで送るんです。万歳三唱をやってそのあと、国防婦人会の方がたすきかけて、うちのおふくろもやってましたけど、そこでお神酒をついで皆様に振る舞うんです。私も子供だったけど、まあじきもらえるなと。スルメです。スルメもらいたさに待っとるというわけです。そうすると皆さんにスルメとお神酒が配られ、「おい、ぼんたち、はい、ぼんたち」といって、スルメをもらえるんです。スルメかじりながら名古屋駅まで「歓呼の声に送られて」とか「行って来るぞと勇ましく」と歌いつつ、戦地へ行かれる方を送った覚えがあるもんですから、私は兵隊さんを送るための神社かな、と子供のころはそんなような感覚でありました。今思うと恥ずかしい話ですが。当時は名古屋駅まで送りました。コンコースは昔のままでしたが、ホームに上がって汽車が来るまで待って送ったような覚えもありました。
 ところで神さまの前は電車通りでしてね、ほいで大勢が集まると車道でやるからね、「おい自動車来た、ふちふちふち」「電車来た」といってふちに寄ったもんですわ。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/その5/西-19

ー以前は当番で木箱を回していたとお聞きましたが。
 これ(木箱)はね、昭和30年代に隣に神さまが移った当時から使っているわけです。ここの中に三方と榊、お神酒、水の瓶、洗米や塩の皿、幕、そしてもうひとつハタキを入れてね、どうしてもそれを入れると結構重い。さらに平成16年以前は三方を神さまのお社頭の上に三つ並べました。これもやっぱり脚立を立てて上がるというので大変、三方三つはとてもじゃないけど、持って上にあがるわけにはいかないと。皆さん高齢になり危ないということで、私が総代になってからここに入れ物を作りました。けれどももうひとつ、この箱とは別にかがり火を焚いていたんですけど、先ほどの話のように苦情もあったんです。だからいつやめたんだろうな、と思い出そうとしたんですが思い出せません。ここに移ってから10年くらいはやったかなと。歩道橋がありましたので、その真下に持って来て焚きました。風が吹くとパッパッパと火の粉が飛ぶもんですから、苦情が出て、困ったなと。それとかがり火に焚く焚き物がですね、まさか古材で焚くわけにはいかんもんで、新しい切り材を束ねたものを買って来た。それも買うことができなくなっちゃった。それもあって、ひょっとして火事にでもなったら困るということで、かがり火は中止、現在はもうやりません。ただまつるだけです。提灯の枠も入りませんので、箱、枠、かごの三つを当番の方に持っていただいておりました。そして次の方にお願いしますと持って行っていました。おうちによってはね、箱は置けるけどかがり火のカゴは座敷に載せるわけにはいかんと、置き場がにゃぁという人が出て来た。それとかがり火のカゴは鉄でできてますから重いんですよ。薄いとすぐ鉄のところが腐っちゃっいまして補修、補修ということがありましたからやめました。


※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/その4/西-19

ー社自体は昔のままなんですが、社の下の部分が新しくなっています。屋根神さまのおまつりのやり方が変わったということは?
 私が平成16年から町の氏子総代として務めさせてもらっているんですが、その前々から、(祭具入れの木箱が)大変重いしもう少し軽くすることはできないだろうか、ということで、三方とか幕、榊の瓶を持ち運んでやっておりましたから、もう少し便利な方法でできないかと考えておりました。今こちら(社)の下のところに(備品入れを)大工さんに作ってもらいまして、その中に三方、榊の瓶、洗米の皿を収めて戸を閉めるようにしました。ただ私の計算違いで、提灯が真横に収まるようにした入れ物を作ればよかったけど、どうしてもここから出るんですわ、道路に。苦肉の策で三方の上に載せて戸を閉めると。ただ、ここに入れてしまうと当番が分からんから、鍵を当番の方に渡して、そこに年間のまつる日をパス入れにつけまして、現在は続けております。
 お供えものの話ですが、町内と個人でどちらがいいということですけども、私は町の会計もやりましたが、いまでは町の会計のなかで3分の2弱くらいは神さま費です。その上にお供えまでもそこから出すとなると大変です。現在も当番の方にお供えを持って来ていただいて、終わったら持ち帰って家で召し上がっていただくということで続けております。今までのように提灯や祭具を箱に入れて、その上にお供えまで持って運ぶとなると大変です。今では鍵とお供えを持ってくるだけでいいので、皆さんに賛成していただいております。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/その3/西-19

ー先ほどの写真では社が高い位置にありましたが、現在の写真では低い位置にありますよね。これはどういうきっかけでこちらにおまつりするようになったのでしょうか?
 私自身、今となっては不思議なんですが、先ほどの作ったばかりの写真を見ると、はしごがすごく長いですよね。こんな危険なもの、よう皆さん承認したなぁと、思うわけです。だからできて半年足らずで、これではやれんもんで、とてもじゃないけど1、15日のおまつりをするわけにはいかんからということで、その当時の(町の)幹部の方がもういっぺん作り直しするわといいました。今の私の隣の所(現位置)に移したわけです。

ー次に神さまの祭礼日について教えてください。
 祭礼日は1年間で三十回あります。1月は元日、2、3日と15日、2月、3月、4月、5月、6月、8月、9月、11月はそれぞれ1、15日、7月は1、15日と津島さんのおまつりを23日に行います。今では津島神社でのおまつりは土日にやられますね。津島さんは土日でやられても、我々が同じ日にちにやると分かりにくくなりますから、先輩が決められて23日という形でやっております。10月はですね、4、5日が冨士浅間神社の大祭ですので、これは2日間続けてやるわけです。12月は秋葉さんが16日にありますもんで三日間ですね。しめて一年間計算しますと三十日やってます。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/その2/西-19


ーさて、本日は高橋さんから貴重な写真を提供していただきました。これはいつごろの写真ですか?

 昭和36年9月ころだと思います。

西-19












ー先ほどの写真に比べると神さまのある位置が高いような気がしますが、まつる場所は移動されたんですか?
 地図で説明しますと、かつては交差点の近くにあったわけです。(道路に)歩道がつきましたが、そこには昔、長屋があった位置なんですね。長屋が10軒、それも今、数を勘定すると何軒だったろうといいうことで、たしか10数軒ありました。まんじゅう屋さんもありましたしね、それから今の美栄堂が化粧品屋をやっていました。その隣に八百屋さんがあって、その隣に自由堂があって、その間に屋根神さまがあったんです。それが道路拡張によって屋根神さまを移動せなならんし、(社は)大正時代のままだから、作り直したらどうだと。私の家の隣に線香屋さんがあったのでその上に作ったらということだったのですが、作った後に、現在の場所に変わってきました。
ーこの写真は社を作って間もないころということですか?
 作って、今の浅間神社、うちの氏神さまですわ、先代の神主さんに来ていただいて初めてご祈祷していただいています。当日はここで神主さんを呼んで、町内の者が全員寄ってお祓いを受けているというわけです。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【講演録】菊井通八丁目の屋根神さま/その1/西-19

 去る3月6日に西生涯学習センターで行われた「残そう! なごやの屋根神」の第三部では、実際に屋根神さまをまつるご町内の方にご登場していただきました。普段、私が行っている聞き取りとは違って、まとまった時間に密度の濃いお話を聞くことができ、また実際に使用している祭具等も見せていただくことができた点で、屋根神さまの実像、祭祀のやり方や苦労などがリアルにお分かりいただけたのではないでしょうか。
 ここでは数回に分けてその講演録を掲載したいと思います。
(聞き手、「屋根神ウオーク実行委員会」 森 実)

ーまずは屋根神さまがおまつりされている場所から教えてください。
 私どもの町内は「菊井通八丁目町内会」といいます。菊井町の交差点の西南角に菊井クリニックという病院がありますが、そこから西の亀島の手前までと交差点から南へ消防署の方に向かってその右側(西側)が「名駅2丁目」です。その東側は「那古野2丁目」です。菊井通八丁目町内会というのは、「名駅2丁目」と「那古野2丁目」の二ヶ町で構成されています。旧町名でいうと「菊井通八丁目」というわけです。
ー屋根神さまはいつごろに作られたものですか?
 私は全然知りません。まったく知りません。ただ古いということだけで、こないだもとの持ち主の方に聞きに行ったわけです。
「高橋さん、何を聞きにいりゃぁた、ほんなこといってもわしも知らんぎゃぁ、わしの親が作ったんだで、わしは知らん。えらいこと高橋さん尋ねにきたなあ」ていわっせる。
「だいたいの想像で分かりませんか」と聞くと、「大正の終わりごろかな...」
 私より年齢が上で、80歳の方ですわ。その方のお父さんのことなのでご存じないわけです。セミナーがあるから、多少詳しく説明せないかんわなぁと思いましてね。大正の終わり、私んとこが大正の終わりごろに現在のところに来ておりますから、そのころじゃないかなと思います。それ以上、詳しいことは私自身分かりませんし、今になるともっと詳しく勉強しとくんだったな、と反省しております。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【セミナー】山地英樹氏講演録(6/6)

 さて、屋根神さま自体は、時代の流れというか様々な事情があって減る一方です。芥子川さんはこの本の中で廃絶の理由として、終戦後のアメリカ軍の進駐、住民の入れ替わり、道路拡張、伊勢湾台風、家屋の改築、商店街の改装、自動車の氾濫、男性が働きに出て老人と婦人だけになったこと、と八つをあげています。そのほかにもいろいろと理由があって減少は現在も続いており、芥子川さんは巻末に、
「一千年にわたる天王信仰が、名古屋という大都市において、屋根神という小祠に結実して百年余の命脈を保ったことは、まことに珍しいことで、民俗学の上からも貴重なものといわねばならない。都市形態の変貌、人心の移り変わりから、早晩その姿を消してしまうであろうが、そうした運命が予測されるだけに、この民俗学的遺産である屋根神さまをいとおしむこと切である」と書かれています。
 私自身はどう考えているのか。講演の前に、2月15日、3月1日の月次祭と3月4日の三回で西区内80ヶ所の、屋根神さまが「ある場所」と「あった場所」を見て回りました。形骸だけが残っているならまだしも、形骸そのものもなくなっていたところもありました。屋根神さまを残す残さないはそこに住んでいる地域住民の方々が決めることだと思います。
 最後に写真集のあとがきに私はこのように書いております。
「私のつたない写真集が都市のフォークロアのひとつの記録としていささかでもお役に立てれば幸いです。私は今後も屋根神さまの消滅をひとつの座標軸として都市の変容を引き続き見守っていきたいと思っています」

名古屋市立の図書館(鶴舞図書館以外)では芥子川律治氏著「屋根神さま」と山地英樹氏著「なごやの屋根神さま」が借りられます。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。

【セミナー】山地英樹氏講演録(5/6)

 屋根神さまを撮り歩いたときのエピソードもお話したいと思います。芥子川さんの本に載っていたある場所を訪ねて行くと、そこには影も形もありませんでした。多分この家だろうと思って「お宅の辺りに屋根神さまがありませんでしたか」と尋ねましたら「ありません」との返事。「確かこの家にあったようですけど、私は個人的に屋根神さまに興味を持ち探し歩いているんですが」というと、「うちの屋根にあったのですがもうなくなりました」と打ち明けてくれました。屋根神さまをなくしたことの後ろめたさみたいなものがあるようでした。そこ以外にも同じようなことが何軒かありました。
 西区内の長屋で屋根神さまの撮影しておりますと、ある女性から「隣の屋根神さまを持って帰ってちょ〜」といわれたこともありました。理由としては1、15日の月次祭の夕方にかがり火を焚く際に火の粉が自分の家に飛んできて危険だから持って帰ってくれと。どうやら私が役所の人とでも思われたようでした。またあるところでは、真新しい家を建てた方が、すぐそばに古ぼけて汚くなった屋根神さまがありそれが目障りだったようで、「変なものを信じていて困る」といわれたこともありました。一方で、私が写真を撮り終えたあとで手を合わせていると、「お参りしてくださってありがとう」とお礼をいわれたところもありました。おまつりの時などは「お宿でお神酒でも飲んでって」とすすめられた場所もあります。
 屋根神さまは下町に多いのですが、棟割り長屋の袋小路といういわゆる「閑所」の雰囲気が好きで、写真の中にその雰囲気を出せるよう自分なりに努力をしてきました。

※2010年3月6日に開催されたセミナー「残そう! 屋根神」の講義録を連載形式で掲載いたします。
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ブログについて
FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
ライブドア 天気
管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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