名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

くらしの窓から

【くらしの窓から】お盆と台風。

台風十号の影響か、名古屋に戻ると風が強く吹いていた。
生ぬるて湿った風だ。

お盆休みに妻の実家に帰省して先ほど帰ってきたところ。
帰宅早々、ベランダに干しておいた洗濯物を取り込んだ。
明日は僕の実家に行く予定。
だけど雨風が強ければ近いところとはいえ外出は控えなくてはならない。
しかも、朝一番に一件だけ仕事が入っている。
キャンセルになることを心待ちにしながら、でも万が一のために出勤できるような態勢を整えなくては。

それにしてもせっかくのお盆休みに台風が来るなんて。

もし明日、家にいることになったら。
そんなこともあろうかと岐阜のうまい酒を仕入れてある。
本でも読みながらのんびり過ごせるとありがたいのだがなぁ。

【くらしの窓から】お墓参り。

お盆を間近に控えた今日、八月十二日。
日・月連休の僕はお休みで、FATBIKEに乗っての古社巡礼に行く予定でいた。

出かけるときはいつも早起きである。
午前四時半に起きて朝食をとり、FATBIKEに荷物を取りつけた。
出発準備が整い、FATBIKEをマンションの外に出した。

少しの間休憩を、と座ったところ頭が熱くなった。
滋賀の酒蔵まつりに出かけた昨日、たくさん飲んだことが原因なのかしらと二日酔いを疑ったけど、それなら起床の時点ですでに気持ち悪いなど反応が出るはずだ。

起きてからの行動を振り返ると台所でコーヒーを淹れたり朝食の準備をしていた。
台所は窓を開けておくと風がよく通る半面、コンロの火を揺らしてしまうので、火を使うときは窓を閉めておく。
そのため熱がこもりやすくなるのだ。
頭が熱いので熱でもあるのかと思い体温計で熱を測ってみたが三十六度二歩。
平熱である。

妻が保冷剤を頭や脇にあててくれたらやけに気持ちいい。
もしかしたら熱中症の初期症状だったかもしれない。
だったら自転車で出かけるなんてもってのほかだ。

ところで、お墓参りにいつ行こうか考えたとき、仕事と実家への帰省でなかなか行けないことに気づいた。
行くなら休みの日の朝一番に行かねば炎天下の墓地は灼熱地獄である。
行くなら今日しかない。
ということで急きょ、お墓参りに。

墓参といっても少しだけ暑さを我慢すれば終えられるし、何よりも心配事がなくなる。
お墓のある場所は思った以上に暑かったけど、墓石に水をかけて花とみたらしをお供えし、手を合わせるとなんとなくホッとした。
やはり今日、来てよかった。
祖父母が呼んでいたのかもしれない。

その後、デパートのレストランに移動。
眺めのよい席でお値打ちなランチをいただくことができたのは、祖父母からのお礼かもしれない。
そのデパートへも祖父母とよく来たことを思い出した。

【くらしの窓から】新しい仕事、新しい挑戦。

四月から三ヶ月間休職して、七月に復職した。
いろいろ考えた末、もとの職場に戻ることになった。
少しずつ現場の仕事を始めひと月がたち、八月からは夏休みということもあってさらに仕事が増えることになった。

休職中の三ヶ月間はもちろん仕事をしていない。
自分がやろうと考えたことを計画的にやってはいたので、何もやっていないわけではないけど、それは仕事ではない。
これまで三ヶ月もの期間、仕事をしないなんて状況はなかったから、仕事に対する気持ちや考えがかなり萎えてしまっていた。
休職期間に入ったころ、もう仕事なんてしたくない、と真面目に考えていたし、いきなり以前のように休みなく働くことが怖かったのも事実。

七月からは仕事数を徐々に増やして体を慣らして行こうと考えた。
五月から六月にかけての松江「プチ移住」期間にずっと自転車に乗っていただけあって体力はついていた。
今後も引き続き古社巡礼を続けていくとなると、今まで以上に標高の高い山に登ったり長距離を走ったりする可能性がある。
そのためには体力維持も必要となってくるのだ。

そこで以前の職場の仕事に加えてスポット的に新しい仕事を入れてみることにした。
七月にひとつ始めて、八月からはもうひとつ始めたので、もとの仕事と合わせて計三つの仕事を稼働することになった。
もともと介護の仕事をしていたけど、あとのふたつも体力仕事である。
いまはまだしんどいが、慣れるしかない。
その代わり、日曜日と月曜日は完全にフリーだから、古社巡礼や式内社に関する勉強に当てる時間にしたい。

松江で暮らしたひと月は四十路の僕に自分がまだ変われる自信を与えてくれた。
古社巡礼だけでなく、三つの仕事を同時にこなすことも変わった自分の新しい挑戦である。

【くらしの窓から】二十年前「親韓派」だったおじさんのつぶやき。

1997年、僕が韓国で暮らしていたときのことだ。
親戚のおじさんを通してある留学生と親しくなった。
両親と姉、そしておじさんという不思議な組み合わせが韓国に遊びに来た。
そのとき、おじさんに連れられてきたのがMだった。
日本に興味がある韓国人であるMと韓国に興味がある日本人である僕、同い年ということもあって親しくなるのに時間がかからなかった。

いま考えるととても不思議なんだけど、二十代半ばの当時、男であろうと女であろうと意気投合すればだれとでも仲良くなった。
だからMとも付き合うとかっていう考えはなかった。
おじさんが間にいると思うとお互い安心していたのだと思う。

そのMは韓国南部の光州出身。
当時の僕はどこかで見知った光州事件について関心があった。
Mに尋ねると、お兄さんが当時のことを知っているという。
だから一度光州に遊びに来ないかと誘われた。

一足先に帰省したMを追って僕も高速バスに乗り光州入りした。
二十年も前のことなので光州で何をしたかは断片的にしか記憶に残っていない。
Mのお兄さんと一緒に全南大に行き、そこで光州事件当時の話を聞いたこと、そしてどういう経緯か分からないが、Mの実家で兄弟も勢ぞろいしたなか、皆でテレビを見ながら食事をしたことを覚えている。

当時、ある番組で社会的なマナーについて韓国と日本を比較するコーナーが人気だった。
M宅で見たのは信号の停止線。
韓国でも道路に停止線は引かれているがソウルでの撮影ではあってなきようなもの。
信号無視や停止線を守らない光景が続々とカメラに映し出されていた。
次に東京の場面が続く。
信じられないが皆が皆、停止線でピタッと止まる。
テレビを見ながら周囲からウソだろ、撮影のときだけじゃないのかというコメントが出た。
でも僕は自分の少ない運転経験から「日本はこんなもんですよ」と答えると、茶の間の一同は「うーん」とうなっていた。

だけどそれは、日本がよくて韓国が悪いとか、そういうものじゃなくてもっと気軽に、日本はこういうことをちゃんと守るんだよ、程度のもの。
番組的には軽いリスペクトが感じられたけど、明らかに反日ではない。
そこにいた僕は日本人とはいえ別に自慢でもなんでもない。
ただ話題自体が日本と韓国のことだからお互い楽しむことができたのだ。

M宅ではご両親からもえらく歓待され、その夜、僕は姉宅で泊めてもらった。
お姉さん夫婦も日本人の僕をとても歓迎してくれたことをいまでも思い出す。
ただ帰りはMと一緒にソウルまで帰った覚えがない。
僕は放浪癖から、どうせどこかに寄りながらソウルまで戻っているのだ。
それが思い出せないのは歳のせい、ということにしておこう。

あれから二十年以上がたった。
今日は日韓関係にとってとても重要な一日となった。
日本が韓国をいわゆる「ホワイト国」から除外した。
文政権になってからの韓国を見ているとこういう経過になるのはむしろ自然な流れに思える。
ある時期「親韓派」だった僕でも「レーダー照射問題」で韓国の行動を疑った。
現政権が反日を国是とする以上、韓国内で日本に利すると思われる意見が社会的な死を意味する以上、反旗をひるがえすことがどれほど難しいかということを日本人は考えるべきである。

M宅で過ごしたのは戦後五十周年という微妙な年から二年が経過したとき。
それでも僕たちは未来を信じて笑いあっていた。
日韓関係がいち早く正常に向かうことを祈るばかりだ。

【くらしの窓から】名古屋で過ごす一日。

台風6号が来襲した昨日。
梅雨が明けたと思ったらいきなり台風である。
雨風ともに凄まじく、お出かけどころではなかった。

しかし今日は台風一過の素晴らしい青空が広がった。
先週の日曜日は京都に遊びに行ったが、今日は近場で過ごすことにした。

午前中はアサヒビール名古屋工場に見学に出かけた。
昨日、ビール工場行きを突然思いついた。
ネットで予約を入れようとしたところ、キリンビールはすでに満席だった。
日曜日だから難しいかなと思いつつもダメもとでアサヒビールのサイトを確認すると空席があったので、二名分を予約。

JR中央線で金山から新守山へ。
駅から工場までは歩いて十分ほど。
ビールの製造から缶詰めまでひと通りの説明を受けたあとはお楽しみのビールの試飲。
試飲時間は二十分で、飲めるのはひとりグラス三杯まで。
出来立てのスーパードライで乾杯し、続いて黒ビール、「豊醸」といただくと酒好きの僕もお腹がパンパンに膨れた。

ほろ酔い気分で工場を出て再び金山に戻り、昼食後、今度は地元のお祭へ。
中川区の「牛立天王祭」では牛立神明社から切戸斎宮社までを山車が巡幸する。
熱田区に引っ越して間もないころ一度見に行ったことはあるが、結婚後は初めて。
最近、京都に祇園祭を見に行って山車まつりにハマりつつある妻に名古屋型の山車まつりを見せてあげたかった。

神明社を出発した山車は細くくねった里道をゆっくりと進みながら、臨港線の線路を渡りゴールである斎宮社に向かう。

これまで平坦な道を巡幸してきた山車は難所である上り坂を一気に上がりその勢いのまま線路を通過。
すると今度は下り坂をゆっくりと下る。
山車を操る男衆が息を合わせないと危険な場所でもある。
日焼けした顔をさらに真っ赤にして力をひとつに山車を進める姿は最大の見せ場である。
斎宮社に到着した山車は、暗くなると提灯に灯りをともす。
見たことはないけど、これがまたきれいらしい。

僕たちはとりあえず帰宅、お風呂で汗を流してから再び祭の空気を吸いに出かけたいと思う。

【くらしの窓から】大学図書館へ。

帰り道、小雨になったと思ったら、ベランダの窓を開けると雨は音を立てながら激しく降っていた。

結局、一日雨だった。
「青春18きっぷ」を使って一年ぶりの京都を楽しんだ昨日。
連休の今日は出雲以来の古社巡礼に出かけようと計画していたけど、朝から雨が降っていたから中止。
新聞の天気欄は時間帯によって雲マークと傘マークが交互になっている。
京都で楽しんだ分、一日のんびり過ごそう。

何もない日は「式内社調査報告」の書き写し作業をやるというのが日課である。
書き写しとは今後行こうと考えている「国」(尾張国とか出雲国の「国」のこと)の神社一覧表の作成である。
実際に出かけるときはその表にチェックを入れるため、訪ねたかどうかを把握するための大切な資料になる。
社名、所在地、祭神を書いていくという簡単なものだけに途中で飽きてしまうのが難点。
家でやると、なにかと家のことが気になるので集中できない。
ときたまスタバでコーヒーを飲みながらやっているけど、この雨では歩いていくのも億劫。

近くでよい場所はないか...
そこでひらめいたのは我が家近くにある大学の図書館。
図書館は大学関係者だけでなく一般利用者にも門戸を開いているので、手続きさえすれば利用可能だ。
すでにカードは持っているけどここ数年利用していないので、とっくに期限が切れてしまっていた。

今朝、学生に混じって図書館を訪ねた。
訳を話してカードを更新してもらい、今日から図書館施設利用(一部不可)と蔵書の貸し出しが可能になる。
早速、午前中の作業開始。
大学図書館のすてきなところはそこで丸一日を過ごせるところだ。
昼食は下階の学生食堂でとることができる。
ただし腹が減ったらいつでも利用というわけにはいかない。
学生たちが授業を受けている間に済ませるのが、利用させてもらう者のマナーである。

午後からも作業の続きを行い、キリのいいところで切り上げた。
帰りは「お土産」と称して新書を五冊借りて帰ってきた。
これで当分、本代を浮かせる。

我が家から大学図書館までは歩いて十五分ほど。
公共図書館と違い月曜日にも開館しているし、平日は二十時まで利用できる。

とてもありがたい存在だ。

【くらしの窓から】誕生日、四十六歳になった。

昨日は僕の誕生日。
四十六歳になった。

四十六って、より五十歳に近づく年齢だと思う。
四十五歳になった時点ですでに四捨五入すると五十だけど、まだ四十代と五十代の中間という意識があった。
四十六の場合、残念ながら中間より五十代側に一歩、足が飛び出たことになる。

四十五歳の一年は大変だった。
両親が実家を売却しマンションに引っ越した。
落ち着いたところで父親にガンが見つかり入院。
かなり進行していたことから治療は難しく、自宅療養という名目で自宅に戻った。
十月に家族揃って最後の旅行に行き、翌十一月に亡くなった。

父の死ととき同じくして僕の体調が大きく崩れた。
原因不明の湿疹とともに体のあちこちが痛くなり、起きるのも辛くなった。
一月、仕事をやめることを職場に伝えたが、とりあえず休職扱いとなった。
四月十日から六月三十日までの三ヶ月間。
その間、五月七日から六月十一日までを島根県松江市に「プチ移住」、ほぼ毎日を自転車に乗って過ごした。
隠岐の島にも寄って名古屋に帰宅。

帰宅後は見違えるくらい健康になっていた。
真っ黒に日焼けしただけでなく、体重も六十キロを切り、お腹周りがきつかったジーンズに握りこぶしが入るようになった。
自分でも体質がかなり改善されたと驚いたくらいだ。
そんな一年だった。

中年になると若いころと違うから無理しちゃいけない、という言葉を聞くことが多くなったけど、その無理も適正であれば、むしろ健康につながる。
父の死の記憶は残っているけど、四十五歳でも自分は変わることができたんだと、大きな自信につながった。

四十六歳の自分はどう生きたいだろう。
男性の平均寿命が八十歳とすればもう半分を切っている。
僕の人生には親世代のように定年まで勤めて退職後は悠々自適に海外旅行、なんて選択肢はない。
給料も上がらないし、この先、雇用だって非正規が当たり前になるかもしれない。
自分はいま、元の職場で非常勤として働くことになったし、妻も派遣社員である。
しかも僕が介護で妻はコールセンター、世間で嫌われる二大職種。
たしかに仕事は大変。
でも僕たちはそれを苦に不平不満ばかりいってるわけでもなく、それなりに暮らしている。
もちろん、もっとたくさんお金がもらえるにこしたことはない。
それよりも家のなかにモノが少なくすっきりしていて、好きな本を読み、台所で料理を作りながら一杯飲む。
この日常が好きだし、楽しんでいる。

そしていま「プチ移住」を松江だけで終わらせるのではなく、日本各地でできないか考えている。
松江で暮らしたのはひと月。
「プチ移住」といっても期間的な定義があるわけでないけど、以前立ち読みした雑誌に書いてあったように「観光以上、移住未満」が理想だ。
持って行く荷物もパッケージ化できれば、移住先さえ決まったらすぐに動くことができるだろう。
考えるだけでワクワクする。

問題なのはお金。
二人でほんの少しだけ余裕を持って暮らしていけるくらいでいい。
間違っても体を壊してまで働くのは四十五歳でサヨナラしたい。
僕が一番大切にしたい四十六歳のアジェンダってこれかな。

【くらしの窓から】「プチ移住」後の自分。

松江での生活を終え名古屋に帰ってきたのが6月11日だから、すでにひと月が過ぎた。
帰宅後は母親が救急搬送されるなどしたから、通院に付き添ったり自宅マンションを頻繁に訪れたりとそれなりに忙しく過ごしていた。

また月末には以前勤めていた職場にあいさつに行った。
退職を伝える予定でいたけど、結果的に七月からは非常勤として働くことに話がまとまった。

今年の四月初旬、引き継ぎも中途半端に職場を去ることになった。
代表には「辞める」と話したが、「とりあえず休んだら」と三ヶ月の休職扱いとなった。
休みに入ってからは仕事のことは一切考えず、また職場と連絡を取ることもなく過ごし、松江での生活に向けての準備を進めていた。

5月18日のことだった。
出雲市内の神社を回っていたとき、携帯に着信があった。
母親かなと思い着歴を確認すると、職場の非常勤さんからだった。

浜山公園内で弁当を食べていたときにかけ直すと非常勤さんは、僕の体調を気遣う言葉の次に、職場の現在の状況について訴えてきた。
僕が去ったあとの職場はメチャクチャの一言らしい。
事務を手伝ってくれてたひとが辞めてしまったり、現場からの苦情の声も多く、後任の責任者は予定に穴を開けては謝りに行くこともあるそうだ。
僕が責任者を任されていたときからすでに余裕ある職場ではなかったけど、たまに来てくれる非常勤さんから仕事の相談を受けたり、軽く雑談したりということはあった。
僕も非常勤さんから仕事のことでは随分助けてもらったから、「持ちつ持たれつ」の関係が保たれていた。
だが、いまは僕がいたとき以上に余裕がなくなっていた。
連絡をくれた非常勤さんは「だから最近、事務所に行きたくなくてさ」と話してくれた。

名古屋帰宅後も連絡があり、「できることなら戻ってきてほしい」と懇願された。
いろいろ考え、職場の代表者とも話し合い、非常勤で現場だけならという条件をつけて限定的に復帰することにした。
早速、七月第一週から少しずつだけど、シフトをこなしている。

一方、こうしていったん仕事を離れたことは好機でもある。
松江では自転車ばかり乗っていたから、名古屋に戻ると体がかなり絞られていた。
そこで新しい仕事にチャレンジしてみようと思い、自宅近くの早朝バイトを始めた。
想像以上にきつい。
けど仕事先まで徒歩で十分以内と近いし、これまで見たことのない世界をのぞいてみるのもいましかできないことのように思えた。

松江「プチ移住」後の僕はまだまだ中途半端である。
これまでのように正社員として、休みなく長時間働くことに魅力を感じないし、嫌である。
お金は大切、だけどそのために生活や自分の時間を犠牲にすることに意味がないと思ってはいたけど、いざ現場にいるとそんなこと口に出せない。
皆が忙しい、ここで働いている以上は我慢しなきゃという空気に支配されている。
体を壊してようやく仕事から解放されるなんて、ありがたいようなバカらしいような。

当分は中途半端な状態でいようと思う。
お金も必要な分だけ稼ぎ、「それ以上」を求め頑張ることをしない。
そのためには自分にどれくらいお金があれば普通に暮らしていけるのかを数値的に割出す作業をしてみたい。
同時に、家にある必要のないものをすべて処分したい。
そうすれば自分にとって何が本当に必要かが見えてくるはずだから。

【暮らしの窓から】写真整理とカメラ。

松江「プチ移住」とおまけの隠岐の島の旅から帰宅して明日で一週間。
旅の間に撮影した写真の整理がようやく今日、終了した。

整理といっても写真家さんのように大きなディスプレイを使いながら作品を確認というわけではなく、ノートパソコンの画像プレビュー機能を使い、流れ作業的に写真を次から次へと確認していくだけだ。
基本的には神社一カ所に対して残す写真は五枚。
残す写真を決めたら次に名前をつけていく
例えば2019年5月16日撮影分であれば「190516○○神社1」というように。

デジカメを使うようになって以来、写真を撮る枚数が格段に増えた。
そのため、ものぐさな僕の経験上、旅先から帰宅してすぐに整理を始めないと、必要な写真だけを撮り出してあとはそのまま、という放置状態に陥ってしまう。
そうなったら最後、SDカード内で数年間、眠りについてしまうのだ。
つい最近もカードを確認していたら中身がぎっしり詰まった数年前の東北の旅の写真たちが出てきた、桑原桑原...

フォトショップが入ったマックが自宅にあったころは家で写真を加工していた。
マック処分後はレンタルパソコンサービスを利用して、ブログに載せるための作業をしている。
作業の中身はリサイズとカラー修正という単純作業。

それを延々と行う訳だが、枚数が多い分、途中で飽きる。
するとダレるので、それがとんでもないミスの発生につながる。
情けないことにこれもすでに何度か経験済み。
出雲国と隠岐国で130社近くは回っているはずなので、一回の作業は郡(出雲郡や意宇郡など)にして二〜三郡くらいにとどめておくつもりだ。

一方、写真の整理にめどがついたところで、旅の間、調子が悪くなった愛機リコーGR2の修理手配をようやく済ませることができた。
わがままなご主人さまに従順に付き従ってくれたGR2。
FATBIKE同様、大切な戦友である。

【暮らしの窓から】「スーパー弁当」のお昼。

休職後の僕は毎日日曜日なんだけど、曜日的に今日は本当の日曜日。
松江から帰って以来、久しぶりに午前八時ころまで寝床でごろごろしてから起きた。

「サンデー毎日」とはいっても普段、午前五時には起きている自分。
たまにはゆっくり起きるものいいもんである。
お湯を沸かしコーヒーの支度をし、パンを焼いてゆで卵を作る我が家のモーニング。
パン食の朝なんて久しぶりだ。

朝がゆっくりだった分、お昼もゆっくり。
自宅近くのスーパーに買い物に行ったところ、普段買わないようなお弁当に見切り品シールが張られた状態で売られていた。
そば類は二十円引き。
妻と自分の分をかごに入れ、それだけでは足りないからとさらに唐揚げ弁当をかごに入れた。

弁当は楽だけど、プラスティック容器のまま食べるのは味気ない。
割子そばと唐揚げ弁当を容器から出して、陶器製の器に移し替えた。
もちろんそれがスーパーのお弁当を買うことへの贖罪になるとは思わないけど、プラ容器のまま食べるのとは気分的に別物の感覚になる。

スーパーでもコンビニでもいつの間にかプラ容器ありきで弁当が売られている。
昼食の「スーパー弁当」はそばも唐揚げも思った以上においしかった。
その半面、食べ終わるとすぐに容器はゴミになってしまうのが残念だ。

日曜日じゃなければ、僕の好きなベーカリーでチーズがたっぷり練り込まれたパンを買うんだけどなぁ。
カテゴリ
最近のコメント
ブログについて
FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
ライブドア 天気
管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
お願い
◆お問合せ、ご質問、取材などご連絡はコメント欄へお願いします。後ほどご連絡差し上げます。


◇ ◇ ◇


◆当ブログの写真や図、文章等の無断転用・転載を禁止します。
お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
  • ライブドアブログ