名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

FATBIKE古社巡礼!

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・山代神社

190508山代神社2

「山代の郷。郡家の西北三里一百二十歩。天の下所造らしし大神、大穴持命の御子、山代日子命坐す。故、山代と云う。即ち正倉有り」

山代の郷について「出雲国風土記」にはこう書かれている。

地形図によれば山代神社は、出雲国府跡の西北方向、神名樋野と呼ばれる茶臼山西側に古墳群や山代郷正倉跡近くに鎮座している。
神社がある場所の町名は古志原で、松江駅から南に向かい小山を二つほど越えたところである。

余談だけど、松江でゆいいつお世話になった自転車店が古志原にある。
松江到着以前に名古屋の自転車屋さんでチェーンとサドルは交換してもらっていたが、ブレーキパットだけは在庫が切れていた。
ちょうど五月の大型連休前、部品が入るのは連休後になるという。
そのころには松江にいるから、帰宅してからお願いすることにしていた。

そういうときに限って調子が悪くなるもので、松江での生活が始まってすぐ、前輪のブレーキの甘さが気になるようになった。
ブレーキが効かないわけではないけど、レバーを力強く引っ張るとハンドルに触れてしまうようになった。
そこで事前に調べておいた松江市内の某店を訪ねると、「忙しい」との理由で他のお店を紹介された。
それが古志原にある「サイクルショップ・ヴィレッタ」だった。

自転車を持ち込んだときはブレーキパッドの在庫がなかったので取り寄せてもらい、ついでにブレーキオイルの交換もお願いした。
おかげでアップダウンのある道、とくに下り坂での制動力の不安は解消された。

今回の旅では、自転車に関するトラブルは自分で直せるものからお店に依頼するものまで様々。
なかでもブレーキはタッチの軽さから油圧にしたのはいいけど、トラブルが起きると素人の僕にはお手上げである。
僕が乗るFATBIKEのブランド、サーリーの完成車のブレーキが油圧ではなくワイヤー引きである理由、つまりトラブルがあっても対処が簡単なこと、それが痛いほどよく分かった。

お世話になった「サイクルショップ・ヴィレッタ」からほど近い場所に鎮座する山代神社。
国道432号線の道路沿いに社名が刻まれた標柱が立っており、境内へはその横の細い道を奥に向かって歩いて行く。
途中に立つ鳥居をくぐると拝殿まで100歩、まずは参拝。

丘の中腹のような場所に鎮座する大社造の本殿。
その裏手には木々の根元に御幣がさしてあったり、小祠や石塔の周囲にも同じような御幣がさし立てられていた。
神社といっても本殿にまつられる神さまだけでなく、神社という聖地、その土地自体が祭祀の対象になっているようにみえる。
これも出雲独特のまつり方なのだろうか。

写真は島根県松江市。

190508山代神社5

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・鷹日神社

190511鷹日神社1

松江での生活も名古屋同様、早起きが基本である。
毎日午前四時起床。
コンビニで買った新聞を読みながら淹れたてのコーヒーを飲む。
五時、近くのお寺の鐘が鳴るのを合図にご飯と味噌汁で朝食をとり、当日回る神社を確認し、昼食用のおにぎりを握って、六時から六時半の間に出発していた。

鷹日神社からスタートしたこの日、起きようとすると体の節々に痛みを感じた。
風邪や病気の痛みではなく筋肉痛のようだ。

松江での「プチ移住」生活を満喫するために当初は「十勤一休」、つまり十日活動して一日休むことを考えていた。
遠い島根県までやって来た以上は出雲国だけでなく隠岐や石見も回ってやろう、欲張って本気でそう考えていたのだ。
大学サイクリング部にいた十代から二十代のころならその野望も手の届くところにあっただろう。

あれから二十数年。
いくら介護の現場にいたとはいえFATBIKEで100km近くを走ったあとで小山をひとつ登山した翌日に体が悲鳴をあげるのは無理もないことである。
十勤一休の計画は頓挫、四十路半ばの体力を直視し三勤一休へと計画変更を余儀なくされた。

体に痛みを感じながら訪れた鷹日神社。
境内を囲むように背の高い木々が立ち並ぶ。
入り口の鳥居をくぐり石段を上がって丘の中腹にある拝殿まで90歩、まずは参拝。

本殿裏手の広々とした森には稲荷社などの小祠がまつられていたり、地元の荒神さんの石祠や自然石が集められた一角があったりと出雲の神社とはこういうものなのか、と興味津々で境内を歩き回った。

「式内社調査報告」には主祭神として高皇産霊尊が挙げられているが、境内で目立つのは「鷹日道祖神」と書かれた幟。
かつて東北や甲信地方の道祖神を巡り歩いたことがある。
道祖神といえば男女が並んだ双体像が有名だけど、丸石や石棒、自然石などひとくちに道祖神といっても実態はかなり多様である

境内を見渡し道祖神らしきものを探したけど、それらしきものは見当たらない。
うろうろと境内を歩いていたら、拝殿手前に岐戸大神の神像が浮き彫りになった板碑が立っていた。
平成十九年に米子の在日のひとによって建てられた碑だった。

写真は島根県松江市。

190511鷹日神社4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・眞名井神社

190508眞名井神社1

松江市内に借りたマンションを出て南に向かって走った。
高志原にある工業高校を過ぎると徐々に民家が少なくなり、反対に緑が多くなってくる。
松江の良さは市街地から自転車で三十分も走ると山並みのある風景が見られる点にある。

松江駅近くの逗留先から向かうと左手には「出雲国風土記」で「神名樋野」と呼ばれた茶臼山がそびえ、周辺には大庭鶏塚古墳や山代二子塚古墳などの古墳群、出雲国山代郷正倉跡といった旧跡がある。
僕の住む名古屋にも古墳は多いから決して珍しいというわけではないけど、目の前にある古墳は方墳や前方後方墳といった東海地方ではあまり見られない形である。

墳頂に上がると方墳ならではの「角張った感じ」を体感でき興奮してしまった。
四十路を過ぎると日常生活から感動が減っていくのを感じるが、松江で古墳にのぼることで僕は相当ワクワクしていた。
通勤通学の時間帯、FATBIKEという変な自転車に乗った妙に興奮したおじさんの姿は周囲の人々の目には奇異に映っていたことだろう。
ちなみに少し足を伸ばすと出雲国府跡や国引きを終えた八束水臣津野命が「おゑ」といって杖をついた「意宇の杜」に比定された場所もあり、神名樋野を中心にこの周辺が出雲国の中心であった当時の様子が想像できる。

眞名井神社は意宇平野をのぞむ神名樋野の南麓に鎮座する。
FATBIKEを入り口近くに止めて、鳥居をくぐり石段を上がると広々とした境内に出た。
拝殿まで100歩、まずは参拝。
ひとっ子一人いない静かな境内、といいたいところだが本殿が鎮座する神域内にはひとの姿が。
今回の旅で何度か社殿工事に出くわしたけど、その一発目である。

寛文二年軸立の本殿は県指定文化財。
これまた名古屋では目にすることのない大社造の社を前に、出雲に来たことを実感した。

写真は島根県松江市。

190508眞名井神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・佐久佐神社

190508佐久佐神社八重垣1

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣造る その八重垣を」

八岐大蛇を退治した素戔嗚尊が詠んだとされる歌だ。
この歌のなかに「八重垣」という言葉が三度出てくる。

出雲をイメージする「八雲」や「出雲」よりも多く表現されている「八重垣」という言葉。
広辞苑では「幾重にも作った垣」と説明されていた。
素戔嗚尊は幾重にも垣を巡らして八岐大蛇から後に妻となる稲田姫命を守った。
姫を守る尊の必死さが世の女性のハートを鷲づかみにしているのだろう。
出雲国にあって最大の縁結び譚である。

さて尊が八重垣を築いた場所とされるのが八重垣神社奥の院「佐久佐女の森」
神社でいただいた由緒によれば森の大杉の周囲に八重垣を作り姫を隠したという。

八重垣神社本殿を参拝したあと、奥の院に向かう。
木の柱に注連縄が張られた鳥居様の入り口をくぐって森のなかへ。
大杉があったとされる場所には現在も背の高い見事な夫婦杉が立っている。
さらに進むと鏡の池があり女性二人が池のほとりに座って縁結び占いの紙を浮かべていた。
池の奥には小さな祠がまつられていたので佐久佐神社と思いきや水神社だった。

「式内社調査報告」によると八重垣神社は元々内陸の大原郡の一小社であり、意宇郡に進出したのは「概ね戦国末期」ころのこと。
「出雲国風土記」に「佐久佐の社」としてその名が現れる佐久佐神社は八重垣神社と一体化し吸収されたかにみえたが古来の記憶は薄れることはなかった。
明治になると式内社に比定されいったんは佐久佐神社と改称されたが、久しく続いてきた「八重垣」という社名をなくすことが忍びなかったようだ。
大正十一年、社号を再び八重垣神社と戻すことが許され、しかも県社に昇格した。
その辺りの複雑な経緯に関しては僕にはよく分からない。

ちなみに佐久佐神社だった当時からの祭神は青幡佐久佐日古命、現宮司の佐草氏の祖神であるというから、その歴史は古い。

写真は島根県松江市。

190508佐久佐神社八重垣4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・磐坂神社

190508磐坂神社1

社名の「磐坂」(イワサカ)が気になって広辞苑で調べてみると、同じ読みで「磐境」が出てきた。

「神の鎮座する施設・区域」

これって普通にイメージする神社のことじゃないのか。
イワサカって確か磐座(イワクラ)と同じような意味だったはず。
出雲にはご神体として尊崇される石神や大岩が多い、「プチ移住」前に読んだ本にはそう書かれていた。
だから磐坂神社も社名からすると大岩や石神が鎮座しているのではと期待していた。

松江の市街地から南に下り低い山並みが続くのどかな風景を走り抜けると、意宇川が平原川と分かれる手前に「岩坂」と書かれた看板を見つけた。
地図上では二つの学校記号に挟まれた丘陵上に神社がある。

小学校を左手に見ながら勢いよく水が流れる用水を渡ると木製の鳥居が立っていた。
その鳥居をくぐると山道のような石段が頂上へと誘う。
石の鳥居が見えてくるともうそこは境内だ。

随神門をくぐると正面には拝殿が建っている。
学校からは子どもたちの声が聞こえてくるが、境内にひとの姿は見られない。
入り口の鳥居から拝殿まで290歩、まずは参拝。
拝殿後方には大社造の本殿が鎮座するだけで、社名から勝手に想像していた石神は残念ながらまつられていなかった。

拝殿に向かって左側には摂社である「健雄神社」の社殿とともに牛のような獣の石像が立っていた。
天満宮で見慣れた寝そべる牛ではなく四肢で立つ牛(のような動物)であるから珍しい。

動物といえば拝殿の雨除け屋根の辺りからゴソゴソと何かがうごめく音がひっきりなしに聞こえた。
どこかの隙間から忍び込んだネズミが屋根の空洞で遊んでいるのだろうか。
足音だけが僕の頭上を行ったり来たり繰り返している。
姿が見えないから何だか気持ち悪い。

※写真は島根県松江市。

190508磐坂神社2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・前神社、能利刀神社、田中神社、楯井神社、速玉神社、布吾彌神社

190508前野神社稲田神社1

熊野大社でのお参りを済ませいざ帰ろうとしたとき、ハッと思い出した。
境内にまつられている摂社に式内社がありはしなかったか。
その予感は的中(というか事前準備を怠ってド忘れしていただけだけど)、再度境内に戻った。

「式内社調査報告」によれば熊野大社の摂社としてまつられている旧式内社は六社。
本殿に向かって右側に鎮座する稲田神社には前神社が、左側に鎮座する伊邪那美神社には能利刀、田中、楯井、速玉、布吾彌の各社が合祀されている。
幸い時間に余裕があったので、改めてせっかちな自分の性格をうらめしく思いながら二カ所の摂社に手を合わせた。

「出雲国風土記」によると前神社は「前の社」、能利刀神社は「詔門の社」、田中神社は「田中の社」、楯井神社は「楯井の社」、速玉神社は「速玉の社」、布吾彌神社は「布吾彌の社」と記述のある通り、もとは独立した神社であった。
なかに長い年月の間に社を失った神社もあったようだが、決定的となったのは明治四十年代に吹き荒れた神社合祀令。
それにより式内社と目される神社でさえ整理の対象となり、稲田、伊邪那美両社の内に合祀されたのだ。

話は変わるが、式内社数が全国二位の伊勢国は皇祖神のお膝元であるが故か、合祀が盛んに行われたとみえる。
式内社巡りが、実際に鎮座する神社だけでなく旧社地巡りも多かったことをよく覚えている。
一方、合祀後に再び、地域の人々の熱望により旧社地に社を構えた神社も見受けられた。

官社であった式内社も長い歴史の流れを受けて地域の氏神に変質した。
その地域の事情を差し置いて整理の対象としてしまう神社合祀令とは一体何だったのだろう。
古社といわれる神社を巡りながらそんなことを思うことがある。

※写真は島根県松江市。上段が稲田神社、下段が伊邪那美神社。

190508能利刀・田中・楯井・速玉・布吾弥伊邪那美社1

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・熊野坐神社

190508熊野坐神社1

出雲国の式内社は、まつられている神々の数でいえば187座と大和国、伊勢国に次いで多い。

しかし「名神大社」という創建年代が古く由緒のある神社は、不思議なことに意宇郡の熊野坐神社(現熊野大社)と出雲郡の杵築大社(現出雲大社)の二社のみである。
近隣と比較すると、名神大社がない伯耆国と石見国は別として、一社である因幡国よりは多く、隠岐国の四社より少ない。

ちなみに大和国の名神大社は128座と突出しており、伊勢国はかなり減って18座。
いずれも出雲国よりは十分多い。
都が奈良から京都に遷都されたのは794年、延喜式が施行されたのは967年。
依然、国家から重要と思われていた神社は旧都である奈良に多いが、出雲も神社の数はそれなりに多いにも関わらず、名神大社数でこれだけ水をあけられているのは何か意図的な理由でもあるのだろうかと不思議に思う。

根元に立てかけたFATBIKEが小さく見える巨大な鳥居をくぐり、整然と立ち並ぶスギ木立を経て境内へ。
広い境内を通り抜け拝殿まで240歩、まずは参拝。
僕はこのとき二礼二拍手一礼の作法で参拝したのだけど、あとで参拝に来たおばあさんは二拍手を四拍手で参拝していた。
四拍手は出雲大社だけの礼儀なはず。

でもちょっと待て。
境内にはかの有名な鑽火殿がある。
歴代出雲国造は熊野大社できり出された火で調理された食物を食べることで新しい国造となったそうだ。
と考えると郡は違えど、出雲大社とは切っても切れない関係であることが分かる。
だから、おばあさんの参拝方法はあながち間違いとはいえないのかもしれない。
ただそこまで深読みしていたかどうかは疑問だが。

意宇川沿いの新緑を眺めながらのサイクリング。
出雲国の古社巡礼初日の光景である。

190508熊野坐神社4

【FATBIKE古社巡礼!】隠岐国の旅、最終日。

岡山駅から新幹線に乗り換えた。
目的地は名古屋。
ここに来てようやく帰宅を実感した。

松江暮らしのため名古屋を発った五月七日以来の帰宅である。
本来なら松江で借りていたマンションの契約期間満了とともに帰宅する予定でいたが、隠岐の島行きを決行したので旅が四日間延長された。
松江よりも遠い隠岐の島。
昨晩は隠岐の島最後の晩でもあり「プチ移住」を含めた一連の旅の最後の晩でもある。

西ノ島の民宿「味好」
お母さんが腕を振るうご飯は最高にうまい。
地の魚を手間暇かけた家庭料理でもてなしてくれるとネット上で好評の宿である。
アジのたたき、魚のすり身の天ぷら、肉の炒め物、もずく、昆布の和え物...と品数も多ければ量も多い。
もちろんご飯と味噌汁もつくのだが、ご飯はこっそりお替わりをした。

さて、昨晩は夕食を松江在住の薬品会社の営業氏とご一緒した。
「味好」歴の長い営業氏は隠岐の島を営業で回りながら「ここ以外でこれだけの食事できるところないよ」と大絶賛。

さてその営業氏、僕が松江にひと月滞在していたことを話すと、大変びっくりしていたが、僕のことよりもむしろ我が妻について「ひと月もの間、旦那を旅させるなんてとてもできた奥さんだ」と感心することしきり。
ちなみに営業氏は僕が松江に滞在中に開催されたホーランエンヤで某地区の櫂方を務めたそうだ。
グラスになみなみと注いだ焼酎をグビグビ飲みながら豪胆に話す。
それを宿のお母さんは嬉しそうに、うんうんと自分の息子の話を聞くようにうなずいている。
僕も横で話を聞いたり、ときに自分のことを話す。
宿に泊まっているんだけど、なんだか実家の居間にいるみたい。
隠岐の島は縁もゆかりもない場所だけど、まるで親戚の家にでも遊びに来ている感覚である。
しかも宿のお母さんからは「Iターンに来なさいよ、仕事もあるし空き家もあるからさ」と真顔で口説かれてしまった。

松江のひと月に比べると隠岐の島は島前・島後ともに二日ずつと滞在日数は断然短い。
神社巡りだけのためにやって来た隠岐の島だけど、ペダルを漕ぎながらその豊かな自然が自ずと視界に入り、そのエキスが体内に注入され疲れた肉体がほぐされていく。
二ヶ月前、休職したころの僕の体はあちこちに原因不明の痛みが暗躍していた。
それが、松江で調子が整い、隠岐の島で回復したといっていい。

今朝、フェリーターミナルに向かう前に隠岐の島と最後の別れをと思い、宿のお母さんに教えてもらった島根鼻キャンプ場を訪れた。
視界の先には大海原と停泊する海上保安庁の巡視船。
ここでコーヒーを淹れることにした。
アルコールストーブでお湯を沸かし、コップにドリップパックをセット。
沸いたお湯をゆっくり注いで完成したコーヒーのコップを大海原に向けて高らかに挙げた。
お酒じゃないのが残念だけど、朝だからコーヒーで十分。

さよなら隠岐の島、さよなら島根!

【FATBIKE古社巡礼!】隠岐国の旅、3日目。

隠岐の島では式内社を巡りながら海辺の道を走ることがある。
島だから当たり前のことなんだが。

走っていて海水浴場ほどではないけど小さな砂浜があれば、気が向くとFATBIKEを置いて浜に降りることがある。
その場にしゃがみこむと、打ち寄せる波に洗われながら石にしがみつく小さな巻き貝を発見。
よく観察すると細かく動いているが、指先でつまむとさっと貝殻のなかに隠れてしまう。
なかなかかわいい奴だ。

見渡すと石という石の上には同じような貝がたくさんくっついている。
この名も知らぬ貝以外に生き物といえば...フナムシくらいか。

波打ち際の生き物探しに没頭して無垢な少年時代に戻ったのも束の間、視線を移すと波打ち際には案外ゴミが多いことに気づいた。
打ち上げられたものだ。
ペットボトルや缶といった小さなモノから船舶用の浮き、一斗缶、形の崩れた発泡スチロールといった大型のモノまで様々だ。

ペットボトルの出身地を見ていくと、韓国のものが圧倒的に多く、次に中国(大陸)、珍しいものとしてベトナム(であろう)のペットボトルも見つけた。
波に乗ってぷかぷかとたどり着いたのだろう。

二十年近く前、韓国で暮らしていたときに鬱陵島を旅したことがあった。
偶然、岸壁近くに座っていたら緑色の扁平なプラ瓶が目の前を漂ってきた。
むむっ、どこかで見たことある形、近づいてきたとき思わず声が出た。
「あっ、ママレモンだ」

国境を越える海流。
政治とか国民感情とか関係ない、純粋な自然現象である。

転じて、隠岐の島には海流に乗ってやって来たひとたちが多かったんだと思う。
そこで島を開拓した人々を束ねる人物が神となり、神社の名前としてその名を刻まれたのでないかと思った。
隠岐の島には明らかに神名を冠した式内社が十五社中十社。
ざっと挙げると、

由良比女神社(知夫郡)
比奈麻治比賣神社(知夫郡)
眞気命神社(知夫郡)
天佐志比古命神社(知夫郡)
奈伎良比賣神社(海部郡)
宇受賀命神社(海部郡)
玉若酢命神社(周吉郡)
和気能須命神社(周吉郡)
水若酢命神社(穏地郡)
伊勢命神社(穏地郡)
これだけある。
見事に神名。

どういういきさつでこういった神さまが多いのだろうか。
考えられるのは海の存在。

隠岐の島で海を目にしない場所はない。
同時に韓国ほか外国からの漂流物が多いことと関係ないようで、じつは大いに関係あるんじゃないか。
そう思う、隠岐の島の旅。

【FATBIKE古社巡礼!】隠岐国の旅、2日目。

隠岐の島は大きく「島前」(どうぜん)と「島後」(どうご)の二つに分かれる。
今回の旅ではまず、境港から「島後」の隠岐の島町に渡った。

僕が古社巡りのテキストにしている「式内社調査報告」によれば隠岐国全体の式内社数は十五社。
島前に八社、島後に七社でそのうち名神大社は島前二社、島後二社の計四社。
名神大社だけで比較すれば、杵築大社(出雲大社)と熊野大社の二社しかない出雲国よりも多いことになる。

坂道に悩まされながら一日で予定通り島後の式内社を回り終えたから、今日からは島前へ。
今朝八時台の隠岐汽船のフェリーで島後・西郷港から島前の海士町に向かった。

島前の式内社は八社、ただ島後と違い海士町、西ノ島町、知夫村の三カ島に分かれているため、島の行き来ができるかが悩みの種だった。
しかし松江の観光協会で手にした隠岐の島のパンフレットで、島前三カ島を結ぶ航路が一日八便出ていることを知った。
一回三百円と安いし、利用客が少なければ自転車ごと乗せられるそうだから、メリットは大きい。
これを利用すればなんとか隠岐国も順調に回れそうだ。
早速、海士町の式内社を訪問後、同町菱浦港から島前内航船で西ノ島町へ。

順序が何だか変だが、隠岐国の旅は「島後の前半」から「島前の後半」戦へと突入した。
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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