名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

出雲国

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・許豆神社。

許豆神社が鎮座する小津の辺りは海に近いせいもあって風が強いとみられる。
僕が訪ねた日は快晴で海は凪いでおり風も強いとは感じられなかった。

風の強さを云々したのは、許豆神社を探していたら北側の山の上に風力発電機が並んでいたからである。
実際に風の強さと関係するのか分からないが、「式内社調査報告」によると「南の宮」の祭神は志那津毘古命と志那津毘女命という風を司る神であるという。
「北の宮」の祭神は素戔嗚尊なので前者二神が小津地区の守り神であると大きな声ではいえないまでも、航海守護の神でもあるのでこちらの方が地域の実情を反映しているのではないだろうか。

「南の宮」も「北の宮」同様、境内は山の中腹にあるが、白っぽい鳥居が山の緑のなかにくっきりと浮かび上がっていたので探しやすかった。
神社の場所は分かったので近回りしようと集落のなかに入った。
家と家が肩を寄せ合うように密着しておりその間を通る道もFATBIKEのハンドル幅+αくらい。
狭くてくねくねした路地のなかにも荒神さんだろうか、串幣をさした聖地的な場所が目についた。

地図を見ると十六島湾の湾口のすぐ東側に山がせり出しているから、ひとが住めるの範囲は限られる。
南北の許豆神社はちょうど密集する集落をサンドイッチする形で集落の両側の山の中腹に鎮座していた。

下り基調だった路地内の道が上り坂に転じたところで鳥居がすぐ目の前に立っていた。
高台にある神社まで石段を上がり30歩、まずは参拝。

拝殿には太い注連縄が吊られ、軒の扁額には「祓詞」「大宮許豆神社祓詞」の二節が記されていた。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・許豆神社。

許豆神社は延喜式上、不思議というか珍しい神社のひとつである。

延喜式を眺めていると時々同じ名前の神社を見つけることがある。
これまで「大井神社」や「大水分神社」、「丹生神社」なんかは何度も訪ねたことがあった。
同名の神社とはいっても尾張や伊勢といった国が違ったりその下の郡が違ったりしていた。
同じような地形があればそれを目にしたひとが同じような神性を感じ同じような名前をつける。
そこには「同じ名前をつけようぜ」といった横の連携があったわけではなく、似たようなものの感じ方、メンタリティーを当時のひとたちが持ち合わせていたからなのだろう。

しかし許豆神社の場合は同じ社名の神社とはいっても出雲国楯縫郡のなかで隣あって存在している。

能呂志神社
許豆神社
許豆神社
水神社

といった具合で。

式内社を訪ね始めて四年ほど、まだまだ訪ねた国の数は少ないけど、これまでの経験上、こういったケースは珍しい。

その許豆神社はそれぞれ「北の宮」「南の宮」と呼ばれている。
二つの神社が鎮座するのは十六島湾の湾入部の集落近くで、ともに山の中腹のような場所にまつられていた。
地図上にはちゃんと神社記号があり決して分りにくい場所ではないものの、実際たどり着くのに難儀したのを記憶している。

「北の宮」の場所を尋ねようとひとを探していたところ、港近くの建物からトントンと何かを修理するような音が聞こえてきた。
声をかけると建物のなかから男性が出てきた。

「ここから100mくらい行ったところを左に入ると階段があるんです」

すでに何度も通っていたから階段なんてあったかな、というような表情をしていたのだろう。

「一緒に行きましょうか」

荷台に板を載せた漁師仕様(?)の自転車で神社の前まで連れてってくれた。

写真を撮ろうとFATBIKEを止めるも先客の車が止まっていた。
車体には「出雲市」の文字。
用件はすでに終わったらしく車はすぐに出ていった。
神社の案内をしていたのかひとり残った氏子のおじいさんに声をかけた。

それをきっかけにいろいろなことを立ち話した。
とくに僕が愛知県から来たこと、ひと月松江に滞在しながら神社を回っていることに興味を持ったらしい。

「そんな話なかなか聞けないから、コーヒーでも飲みながら聞きたいけどね。あなたも忙しいだろうから」

先ほど車が止まっていた場所を進むと鳥居が立っている。
石段を上がり境内に出ると正面に拝殿が建っていた。
鳥居から70歩、まずは参拝。
境内からは向かいの山に建つ「南の宮」の鳥居を眺めることができる。

一見するとありふれた神社の境内だが、かつてここには古墳があり勾玉などの副葬品が多く出土した。
古墳はすでになく、副葬品は東京国立博物館に収蔵されている。
氏子さんは立ち話の間にいろいろな話を聞かせてくださった。
十六島湾をのぞむ山塊の尾根には古墳がたくさんあること、許豆神社は北の宮、南の宮だけでなく五ヶ所あったことなど興味深い話がたくさん出てきた。
さらに氏子さんの甥は愛知県在住、トヨタ自動車にお勤めだそうで、そのため名古屋にも何度か行ったことがあると話していた。

「いつか名古屋にも来てください」
「飛行機に乗ればすぐだから丈夫なうちにもう一度くらい行きたいとけど。都会は苦手で...」

十六島湾とそれを取り巻くような豊かな緑を目にしていたせいか、最後のひと言がとても印象的だった。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・能呂志神社。

能呂志神社の境内に入り手水で手と口を清めようとした。
くぼみがあいた自然石に水を落とし込めるよう水道の蛇口が伸びている。

蛇口に手を伸ばそうとしたところ、カメラのストラップの付け根のヒモが切れてしまった。

僕が携行しているのは一眼レフではなく、コンパクトデジカメ。
付属品としてハンドストラップスがついているのだが、心もとないからと首にかけるタイプのストラップを購入して使っていた。
これが案外便利で、自転車に乗りながらも肩にかけておけばとっさの瞬間にも撮りやすく、境内に入ったときもカメラを手で持つよりも肩にかけておいた方が何かと都合がよい。
もちろん参拝時には手を合わせるから邪魔にならない。

ただ一眼レフのような重量のあるカメラのストラップと違い、カメラ本体につなげるヒモは細くて心もとない。
大丈夫かなと思っていたら案の定、切れてしまったわけだ。

そういうイレギュラーな事態が発生すると「縁起が悪い」と思ってしまうのがひとの常。
でもここは神社であるし、僕が出雲にやって来たのは神社を回るためである。
そこでこう考えることにした。
何か別の悪いことが起こるかもしれなかったのが、ヒモが僕の身代わりになってくれた、と。
考え方なんてひとそれぞれだけど、悲観しても仕方ないので、万事楽観的に考えようと思う、とくにこの旅では。

さて、能呂志神社の社名から単純に「狼煙」を連想した。
神社の背後には山が連なっている。
いまのような通信設備がなかった時代に敵襲を知らせる手段としての狼煙。

残念ながらその「狼煙」案は違うらしい。
「出雲国風土記」で楯縫郡の神社一覧を見ると、能呂志神社に該当する神社として「乃利斯の社」が挙げられている。
式内社が「のろし」であるのに対し風土記では「のりし」と読む。
もともと「のりし」であったが、何かの事情で延喜式編纂時には「のろし」に変わったと考えられる。

能呂志神社には南側に旧社地があるそうだ。
暑さと坂道の多さにそこまで行く気力がなかったが、後々「式内社調査報告」で不思議な伝承のことを知り、行ってみればよかったと少々後悔した。
そこには「海苔石」という石があり、それは「冬季海中、海苔が生ずるときにはこの石にも苔が生える」驚きの石であった。
そのため旧社地辺りはノリイシダニ、ノリシダニ、ノシダニなどと呼ばれていたが、時代がくだるに連れて「のろし」と呼ばれるようになったという。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・御津神社。

以前にも書いたような気がするが、松江に到着した日の夕方、あらかじめ調べておいた酒蔵で一升瓶を一本買い、次に米屋さんで島根県産のお米五キロを買った。
用事は済んだけどそのまま家に帰るのもなんだからと大橋川沿いにある小さな公園のベンチに腰を下ろした。

そこそこ人生経験を積んだ四十台半ばとはいっても名古屋以外の土地で暮らすことに対して緊張や不安がないわけではない。
これからどうなるんだろう、ひと月無事に過ごせればいいが...川の流れを眺めながら、これから始まる生活に思いをはせた。

すると近くにいた自転車のおじいさんが声をかけてきた。
FATBIKEの大きく太いタイヤが目につき話しかけてきたようだ。
僕が名古屋から来て今日松江に到着したこと、ひと月限定で松江に滞在しながら出雲国の神社を巡ることを話した。

「ひと月でね。でも大変だと思うよ。坂も多いしね。松江のような町なら道路も整備されているけど、町から離れると道も狭くなるし。とにかく気をつけて行ってきなさい」

おじいさんの忠告によると出雲国は山、つまり登り坂が多いとのことだ。
もちろん旅を終えたいま振り返っても地元のおじいさんの言葉通り、坂道にどれだけしんどい思いをさせられただろう。
このブログでも古社巡礼といいながら神社に対する思い以上に、登り坂に対する恨み節を多く書き連ねてはいまいかと思ってしまうくらいだ。
ただ無知とは怖いもので、そのときは出雲の神社を二週間ほどで終わらせて石見に行こうと真剣に考えていた。
よほど現実を知らなかったというしかない。

出雲国の道のりが思った以上に厳しいことは日を追うごとに体に刻み込まれていった。
宍道湖北岸から山塊を越えて日本海側へ。
ペダルを漕げるところは漕ぎ、勾配がきつくなれば自転車から降りて押して歩く、その繰り返し。
認識の甘さ、確かにそうだ。
一方、自転車の楽しさや爽快感も同時に味わうことになる。
きつい登り坂を越えればその分、長い下り坂が待っている。
束の間のご褒美。
サドルから腰を浮かしクランクを地面と平行にしてバランスを崩さないように力強くハンドルのグリップを握る。
前から吹く風が冷たすぎて風邪を引きそう、というのは大げさだけど、それまでに流れた汗が一気に乾いてしまうようだった。

御津神社の境内は山塊から日本海へ抜ける途中の山のなかに鎮座していた。
下り坂の快感に浸ってしまい危うく見過ごすところだった。
急ブレーキをかけて止まり鳥居の前に戻った。
所在地だけを見れば木々が繁茂する山中に鎮座する神社だが、御津という社名と北側、つまり海を眺めるように鎮座するその位置から海に関係する神社であることが分かる。
入口に立っていた案内板によると当社は何度かの変遷をへて現在地に定まったという。

鳥居をくぐり石段を上がり境内へ。
まず目についたのが向かって左手の土俵と入口近くに立つクスノキとケヤキ。
ひと気のない境内を拝殿に向かって歩く。
入口の鳥居から69歩、まずは参拝。
拝殿は少し扉が開いていて、なかをのぞくまでもなく奥に電灯がついているのが見えた。
防犯目的だろうか。

御津神社が鎮座するのは出雲市三津町。
社名も地名も「みつ」と読む。
ちなみに社名と同じ御津という地名が佐太神社から近い鹿島町の日本海側にある。
僕は御津神社があるのはこの御津だと勘違いをしていた。
ちなみに御津の名物は「さばの塩辛」
塩辛なんて食べたこともなかったのに、これをピザに載せて焼くとまさに和製アンチョビ、さすが島根の海の幸! 

御津神社からまったく関係ない場所の宣伝をしてしまった...

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・多久神社。

多久神社の北側にそびえる大船山。
「出雲国風土記」には神名備山として記されている。

「嵬の西に石神在り。高さ一丈、周り一丈。往の側に小き石神百余り許在り。古老の伝へて云はく、阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命、多宮の村に来坐して、多伎都比古命を産み給ひき。尓の時、教し詔りたまひしく、「汝が命の御祖の向位に生まむと欲ほすに、此処し宜し」とのりたまひき。所謂石神は、即ち是、多伎都比古命の御託なり。旱に当りて雨を乞ふ時は、必ず零らしむる也」

「峰の西に石神がある。高さ一丈、周り一丈。道の傍に小さな石神が百余りある。古老が伝えて言うことには、阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多宮の村までいらっしゃって、多伎都比古命をお産みになった。そのときお腹の中のこどもに教えておっしゃったことには、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい」とおっしゃった。いわゆる石神は、これこそ多伎都比古命の御依代だ。日照りのときに雨乞いをすると、必ず雨を降らせてくれるのだ」(荻原千鶴全訳注「出雲国風土記」より)

道は宍道湖北側と日本海の間に連なる山塊を東西に貫く。
いうまでもなくアップダウンの連続である。
午前十一時になり日射しの強さが増すなかを上り下りしながら走っていくと田んぼに囲まれて立つ鳥居が視界に入った。
「風土記」に出てくる「多宮の村」はこの辺りのことだろうと思いながら鳥居に向かった。
神社は集落奥部、ちょうど谷筋の再奥で「風土記」に出てくる大船山を見上げる麓に鎮座している。
見方によれば神名備山を拝する位置にあるといってもいいくらい、山容がくっきりと眺められる場所だ。

先にあげた「出雲国風土記」には、大船山山頂に石神がまつられているとある。
残念ながら時間的な余裕がなく山に登ることはかなわなかったけど、古社巡礼の際に参考にした平野芳秀著「古代出雲を歩く」には烏帽子岩と呼ばれる石神の写真が掲載されている。
また登山道には遥拝場所のように自然石が組み合わされた場所もあるそうだから、「風土記」に書かれた「往の側に小き石神百余り許在り」という石神かもしれない。
これだけでも一見の価値がありそうだ。

境内の手前に立つ鳥居をくぐり、その先の境内までは石段を上っていく。
拝殿まで240歩、まずは参拝。
平屋建ての拝殿の奥に大社造の本殿が鎮座している。
境内に掲げられた由緒によると「風土記」に書かれている通り「多宮の村」で生まれたとされる多伎都比古命を主祭神に母神である天御梶姫命ほかをまつる。

しかし由緒にはもうひとつ面白いことが書かれていた。
多伎都比古命を云々するのは古代の話で、現在の多久神社の直接の祖になった大船大明神は近江国から渡ってきた松本一族により勧請されたとされる。
近江と出雲ではかなりの距離があるが、近江にも「出雲」という地名があるように両者には歴史的につながりがあったのだと思う。
それにしてもどうしてそんな縁起が生まれたのだろう。
「近江の松本一族」とは一体だれ?

じつは我がつれあい、近江国つまり現在の滋賀県生まれで旧姓は松本である。
彼女の先祖と多久神社に関連があるかどうかは分からないが、祖先をたどっていくと出雲に到達する可能性だってあるかもしれない。
その夫である僕が多久神社を訪ねたのも何かに導かれてのことだとしたら、なんてロマンチックなんだろう。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・宇美神社。

かつて雲州木綿の集積地として栄えた平田。
一畑電車の雲州平田駅を降り北側へ歩いて行くと妻入り土蔵造りの古い町並みが残る一角に行き当たる。
古社巡礼のついでに何度か通り過ぎたことはあったが、ゆっくり歩いたのは「プチ移住」で滞在していた松江の逗留先に妻が遊びに来たときのことだ。

出雲大社を参拝し松江への帰路、秋鹿駅近くのうなぎ屋さんに寄るには時間が早いので、途中の平田に寄ることにした。
時間つぶし程度になら歩けるだろう。
古い町並みに入りぶらぶら歩いていたら醤油屋さんの店先で高校生がみたらしを食べていた。
匂いにつられて店内に入り、並べられた醤油を眺めていると大女将が声をかけてきた。

「いらっしゃい、どちらからですか?」
「愛知県の名古屋からです」

妻がそう答えると大女将は驚いた表情をして「名古屋のどちらですか? 私は南区の大江にいたんです。戦前まで名古屋にいましたが戦後、父の故郷のこの場所に戻ってきたんです」と話してくれた。
大女将が暮らしていた南区は僕が住む熱田区の隣であり、工場の多い大江の辺りは何度か行ったことがある。
そこから名古屋の話に花が咲いた。
妻はミニサイズの醤油と「卵焼き作るときに入れると本当においしいですよ」と勧められた出汁醤油を買い求めた。
そのとき、松江で暮らし始めて十日後に訪れた宇美神社にも案内した。

FATBIKEをそのままの状態で朝一の一畑電車に載せ一路雲州平田へ。
出雲方面に向かう通学の高校生でごった返すホームに自転車ごと降り立った。
駅員さんの先導で改札を出て宇美神社へと向かった。

町なかに鎮座する神社なので苦になる坂を経ることなくたどり着けるからありがたい。
入口の鳥居と随神門をくぐり正面に控える拝殿まで60歩、まずは参拝。
本殿を囲むように末社や荒神さんなどが並んでまつられていたなかに不思議な空間があった。
タブノキと思われる木の根元に常夜灯が立ち賽銭箱が設置されていた。
荒神さんの一種なのか、または他の樹木神なのか分からない。
とりあえず手を合わせた。

当社は社名からして海と関係がありそうと思いきや、由緒によると主祭神の布都御魂神が出雲国に来臨したとき、海上よりこの楯縫郡に上陸したことがきっかけであるという。
しかし現在神社が建つ場所は宍道湖までは遠くないものの、日本海からだと山塊を越えなくてはならない。
神さまだから海だろう山だろうと一足飛びということなのかもしれないけど、それだと説明として乱暴すぎる。

由緒によると宇美神社は長廻家の氏神、廻大明神とある。
「式内社調査報告」の説明で補うと、その廻大明神、もとは海津見神を祭神とする海童神社として日本海側の塩津村に鎮座していたそうだ。
その後、長廻家が楯縫郡沼田郷廻の奥の丘陵上に移したことで現在の場所に近づくことになる。

現宇美神社の前身とされる熊野権現が紀伊熊野から分霊されたのは応永元年。
そして天正十六年、それまで散在していた周辺の神社を熊野権現に集約した折、廻大明神も熊野権現に合祀されてしまった。
その経緯から、明治期に宇美神社を名乗るようになった。

僕としては雲州平田駅から山を越えて日本海側に出るよりも駅近くの現在地にある方が楽に参拝できたからありがたいが、熊野権現の分霊を当地にまつったのも参拝の便がよいという理由だったらしい。
人間が考えることは似ている。

ちなみに、妻がもう一度島根に行くとしたら、平田の醤油屋さんに行きたいといっていた。
お気に入りの場所になったようだ。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・佐香神社。

松江での暮らしを始めるに当たり楽しみにしていたのは酒、日本酒である。

出発前、島根県名古屋事務所で「しまね酒紀行」というパンフレットをもらった。
それによると島根県内の酒蔵は出雲十六、石見十三、隠岐一の合計三十蔵。
「プチ移住」以前にそれを知ったものだから、ひと月の間、どれくらいの酒と出会えるかを楽しみにしていた。

島根の酒といっても以前、旭日酒造の「十旭日」を偶然手に入れて飲んだくらいで、銘柄についてはほとんど知らない
島根の酒素人の僕だったが、古社巡礼のついでに訪ねた蔵は七蔵、特約店などで購入したものを含めて合計十一蔵の酒を味わうことができた。
ひと月に十一蔵ということは三日に一回の割で新しい酒を買って飲んでいた計算だ。
なかには好きすぎてリピートした酒もあるし、複数回訪ねた蔵もある。
もし次回、松江に行く機会があれば、今回飲めなかった銘柄も含め、ただ「飲む」ためだけの旅がしたいなぁ。

ところで前出の「しまね酒紀行」には島根の酒がおいしい理由として水、米、杜氏という三つの条件が揃っているそうだ。
そのうち米について、島根県の酒造好適米は「改良雄町」「神の舞」「佐香錦」「山田錦」「五百万石」
なかでも「佐香錦」は式内佐香神社に由来して命名されたという。

その佐香神社への道のりはアップダウンに富んでいた。
宍道湖の北岸に位置する楯縫郡。
湖岸沿いの平野部を日本海側に北上するとすぐに山塊に入る。
郡内各神社を訪ねようとするとどうしても山塊のなかを走り回らねばならない。
変速機がついていない我がFATBIKEではこういう道は本当に辛い。
だから峠を越え下り坂に差し掛かると何も考えず前から吹く風に身を任せたくなってくるのだ。
上りでかいた汗が風で涼しく感じられ爽快である。
だが、爽快感に浸っていたら右側の田んぼに立つ鳥居を危うく見失うところだった。
スマホの地図を確認すると佐香神社だった。

鳥居の前にFATBIKEを止めて写真を撮ろうとしたが、扁額には「松尾神社」と書かれている。
なぜだろう。
スマホを出しても一度場所を確認したけど佐香神社で合っている。
首をかしげて境内の前に立つ二の鳥居へ向かったが、その扁額にもやはり松尾神社の文字。
おかしいと思うのも束の間、出雲市の案内板にはちゃんと佐香神社と出ていて、当社は「酒造の発祥の地」であるという。
それで分かった。
佐香神社の「佐香」は「酒」で、酒の神といえば京都の松尾大社が有名である。
ようやくつながった。

「出雲国風土記」楯縫郡佐香の郷には以下のように書かれている。

「佐香の河内に、百八十神等集ひ坐して、御厨立て給ひて、酒を醸させ給ひき。即ち百八十日、喜燕きて解散け坐しき。故、佐香と云ふ」

これだとよく分からないので今回も荻原千鶴全訳注「出雲国風土記」の現代訳にお世話になる。

「佐香の川原に百八十神たちがお集まりになって、炊事場をお建てになり酒を醸造させなさった。そして百八十日のあいだ酒盛りをして、解散なさった。だから佐香という」

この現代訳から、神さまたちが楽しそうに酒盛りする光景が目に浮かぶ。
しかも一年の約半分の百八十日もの間、酒盛りできるなんて! 
羨ましい。
神さま稼業はよほど儲かっているのか、それとも暇なのか。
僕も仲間に入れてぇ!

石段を上がり高台にある境内へ、一の鳥居から拝殿まで265歩、まずは参拝。
石段を登っているとき前方に地元のおばさんの姿が見えたが、境内に着くと社務所の裏手に消えていった。
その直後、「パンパン」と袋が破裂するような音が聞こえた。
何かあるのだろうか、と気にはなったが知らぬふりをして本殿を一周して戻ると、今度は音が響いていた場所から出てきた神主さんに「よくお参り下さいました」と挨拶された。

ちなみに当社は出雲の神社で出雲大社とともに酒造免許を持つ唯二の神社である。
毎年十月十三日の例大祭時には新米で作った濁酒が神前に奉納されるという。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・玖潭神社。

松江市内での逗留先から古社巡礼に出かけるとき、宍道湖の南側に鎮座する神社を訪ねるときはJRに、同じく北側の場合は一畑電車に乗って出かけたものだ。

JRにFATBIKEを載せる場合は輪行が必須である。
マンションを出て高架沿いを東に向かうとすぐに駅なので、バスロータリー角のコンビニ前のベンチを利用してFATBIKEを分解・輪行バッグに袋詰めしていた。
いちいち分解するのは面倒だけど、この作業に慣れてしまうと時間をかけずにこなすことができる。
最初は一時間かけても袋詰めできず電車を逃してしまうこともあった。
でも最近はその時間が十五分まで縮まった。
輪行はやればやるほどその技術が上がるものと実感した。

一方、一畑電車には地方ローカル鉄道によくある「サイクルトレイン」が可能である。
自転車をのままの状態で車内に載せることができる制度だ。
鉄道会社によって運賃とは別に持ち込み料が必要なところ不要なところがあり、また載せられる路線も全区間のところもあれば一定区間の場合がある。
一畑電車の場合、持ち込み料が一回310百円必要だが全区間OKなので嬉しい。
しかも五枚綴り一冊1000円のお得な回数券もあるので、買わない手はない。

一畑電車で毎度利用していたのは松江しんじ湖温泉駅発午前六時二十六分の始発電車。
余裕を持って逗留先を早めに出発し宍道湖大橋を渡る。
すると小舟から身を乗り出し長い棒で湖底を掻くシジミ漁の漁師さんたちの姿が朝日に照らされていた。
町が動き出す前にすでに漁は始まっている。
橋の真ん中でペダルを止めて松江大橋に向かってシャッターを切った。
夕日で有名な宍道湖。
でも神社通いで朝一番の電車に乗るため宍道湖大橋を渡っていたそのときの僕には、宍道湖を照らす朝日こそが美しかった。
その風景が記憶に鮮明に残っており、いまこうして文章を書いていても懐かしく思い出される。

駅で改札を受け車両なかほどのスペースにFATBIKEを立てかけ、ゴム紐で手すりに固定する。
万が一倒れることがないようフレームに手を添えながら、左窓から見える宍道湖の眺めを楽しんだ。
そして宍道湖が視界から消え、一畑口駅のスイッチバックを過ぎると雲州平田駅に到着する。
輪行していないので自転車そのままの姿で走り出す。

平地にある駅周辺を過ぎしばらく走ると山塊に行き着いた。
当日訪ねた楯縫郡の神社には山麓に食い込んだ谷の奥に鎮座するケースがあり、玖潭神社もそのひとつである。
しかし道路状況は過酷でFATBIKEを電車にそのまま載せて楽をした分、アップダウンが続く道に悪戦苦闘することになった。

だらだらした登り坂を越えてようやく下り坂に差しかかったとき、左手に鳥居ではない注連縄を吊した柱を見つけた。
ここだここだ、とFATBIKEから降りて境内に入ろうとすると目の前に黒っぽいヘビがひなたぼっこしていた。
砂を踏む足音にサッと排水溝のなかに逃げていった。

僕が入った場所は神社の裏口なので、いったん正面に向かう。
鳥居をくぐり石段を上がって拝殿まで77歩、まずは参拝。
階段の途中に荒神さんがまつられていた。
丘陵地中腹辺りの豊かな社叢を持つ境内にひとの姿はなくひっそりとしていたが、拝殿に吊された大注連縄の陰に隠れて防犯カメラが監視の目を光らせていた。
純粋に参拝に来ている自分までが監視の対象にされるなんて腹立たしい一方、カメラを設置しなくてはいけないくらい深刻な被害が出ているのだろう。
そう思うと山深い里まで賽銭を盗みにやって来る輩は本当に罪深い。

写真は島根県出雲市。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・大野津神社。

190517大野津神社1

出雲国の神社のなかで宍道湖に一番近い神社、といってもいいかもしれない。
なぜなら境内から湖に降りるための階段があるから。

一畑電車一畑口駅外側のベンチを借りて昼食をとったあと、再びペダルを漕ぎ向かったのは大野津神社。
駅からいったん宍道湖岸に出てそのまま線路と宍道湖の間を通る国道431線を松江方面へ走ると右手に森が見えてきた。
ちょうど津の森駅のすぐ南側である。

ちなみに駅名の「津の森」とは当社のことで「舟着場附近の湖岸に樹林があったことから生まれた地名で、現在もこの附近は「津の森」と呼んでゐる」と「式内社調査報告」には書かれている。
冒頭の境内から湖に降りるための階段とは船着場の名残かもしれず、手前にある常夜灯は灯台のような機能があったのかもしれない。

入口の玉垣にFATBIKEを立てかけ、鳥居をくぐり正面の拝殿まで20歩、まずは参拝。
拝殿に向かって左側に荒神さんがまつられている。
その辺りは小さな森になっているけど、山中や山の際にある神社のように鬱蒼としておらず、また胴回りの太い巨樹も見られない。

祭神は須佐之男命。
由緒によると当地は宍道湖北岸の重要な港であり海陸交通の守護神という機能と、干ばつのときには雨乞いを祈願する農耕神としての機能があるとされる。

興味深いのは干ばつ時に斎行された雨乞神事だ。
神事について由緒に書かれた内容を要約すると以下の通り。

→神主は斎戒して社殿に上がり二夜三日の祈願と称して三日連続の祈願を行う。
→神社に納められている蛇骨を出して飾り蛇頭を正面に安置。神主はそれに向かって大祓祝詞を上げて祈願。
→三日目の朝、蛇骨の一部を竹カゴ二個に納め鳥居のついた箱形の台に乗せ湖岸に運び、待機する四艘の船のうち一艘に安置して神職と供奉員が同船、もう一艘の衣裳船には楽師たち、二艘には各集落より選ばれた若者たちが乗り、湖上へと漕ぎ出す。
→船は湖上を西南方向へ漕ぎ出し、宍道湖の南北にある四つの山々を結ぶ線上で湖底に石の鳥居があると伝えられる場所に到達する。
→船の正面に安置した蛇骨の前で神職の祝詞が奏ぜられ、次に蛇骨が入ったカゴに白木綿をかぶせ湖底に下ろす。
→ひとしきりの雅楽を奏じたあと、神職、供奉員、そして若者たちは裸体になる。若者たちが乗った船は神職・供奉員が乗った船の両脇に漕ぎ寄せ、水桶に水を汲んで神職たちに浴びせかける。
→神職・供奉員を乗せた船の漕ぎ手は逃れようと、また若者たちの船も逃すまいと懸命に漕ぐ。
→神職たちは激しい水飛沫に息も止まるばかりとなり悲鳴を上げると水を浴びせるのをやめ、一同身体を拭き元の装束を着け神社を目指し、無言のままで帰途につく。
→神社の境内が見えてくるころになると晴天が続いた空の一角に暗雲がたちこめ、待望の雨が降り始める。

近年だと昭和九年と十四年に行われたが、灌漑施設が整い作付けが早くなった現在では干ばつが起こりにくくなったのでこの神事は行われていないそうだ。

それにしても神事に出てくる蛇骨とは一体どんな姿をしたものだろうと気にかかる。
飾り付けた蛇骨の蛇頭を正面に安置する場面からはとぐろを巻いた蛇の姿を保った状態のようにも考えられるけど、蛇骨の一部を竹カゴ二個に納めることからすると分離可能な状態(そんな状態があるのかどうか)かとも...由緒には絵や写真が載せられていない以上、想像するしかない。

写真は島根県松江市。

190517大野津神社5

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・許曽志神社。

190517許曽志神社1

許曽志神社の境内に入り不思議に感じるのは狛犬の代わりに鶏や猿の置物があることだ。
猿については当社の祭神が猿田彦命であることが理由と思われるけど、鶏についてはどうしてだろう。
もしかして社名に関係があるのかなとも思ったりする。

式内社には当社の社名のように「許曽」や「小曽」など「コソ」とつく神社がいくつかある
「日本のなかの朝鮮文化」で著者の金達寿氏は「コソ」が神社を指す言葉であり(実際パソコンでコソを変換すると「社」が出る)、その語源について新羅の王である「赫居世」から来ているのでは、と書いている。
赫(ヒョク)が名前で居世(コセ)が治世を指すという。
新羅には始祖伝承にも鶏が登場し、さらに王宮は鶏林にあることから鶏を神聖視していた。
日本でも越前・敦賀半島先端に鎮座する白城神社のある白木集落では鶏を食べないという風習が近年まで残っていたそうだ。

また扁額に「白鬚神社」とあるのは祭神の猿田彦命に通じるからと思われるが、白鬚神社も新羅と関係がある神社。
敦賀と同じく越前・今庄には新羅神社を上宮、白鬚神社を下宮と呼ぶことが岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」で触れられている。
僕も実際に現地を訪れ地元のひとから「朝鮮から来た神さまですよ」と教えられた。

だからといって新羅の王の名と「コソ」、白鬚神社と鶏の置物が即、結びつくのかは僕にはよく分からない。
ただ、位置的に越前よりも新羅に近い出雲にそういった伝承が残っていたとしても不思議ではないし、むしろロマンを感じる。

神社は宍道湖北側の山の中腹に鎮座している。
鳥居をくぐり拝殿まで180歩、まずは参拝。
「式内社調査報告」によると、江戸時代の中ごろまでは現在よりも南方200mの平坦地にあったが、貞享元年(1684)四月に現在地に遷座したという。
もとはいまよりももっと宍道湖に近かったというわけだ。

ちなみに神社の近くには丹花庵古墳や「古墳の丘古曽志公園」があって、公園には実物大に復元された古曽志大谷一号墳がある。
墳面が葺き石に覆われ埴輪が囲う前方後方墳だ。

そういえば「コソ」つながりで伊勢国の大乃己所神社周辺には遺跡があることを思い出した。
「コソ」とつく土地には人々が集う場所があった。
それは共通の祖神である氏神をまつった場所、つまり神社だったとはちと強引な推測かもしれない。
でも古くからひとが暮らしていた土地という共通点があることは確かだ。

それにしても、出雲国の古社巡礼で神社とともに古墳を訪ねることを無上の楽しみとしながら、なぜ古墳公園に行かなかったのだろう。
松江「プチ移住」で後悔したことはそれほど多くはないけど、なぜ神社の帰りに古墳公園に寄らなかったのか…
いまとなってはかなり後悔している。

190517許曽志神社3
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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