名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

出雲国

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・加賀神社

190514加賀神社1

松江の風光明媚な観光スポットである「加賀の潜戸」
潜戸鼻と呼ばれる岬の先端近くの海上に旧潜戸と新潜戸という洞窟状の穴が空いている。

「出雲国風土記」にも記されていることから古代出雲の人々にも神秘的な感動を与えたことだろう。
嶋根郡の条には加賀の潜戸についてこう記されている。

「加賀の神埼。即ち窟有り。高さ一十丈許、周り五百二歩許。東と西と北に通る」
(萩原千鶴訳/加賀の神埼。ここに岩窟がある。高さ十丈[29.7メートル]、周り五百二歩[893メートル]ほど。東と西と北とに貫通している)

風土記を記述するにあたりだれかが直接出向いて調査を行ったと思われる。
加賀の潜戸に限らず「出雲国風土記」は国内の名勝なども詳細に記述している。
「出雲国風土記」の取材・編集に携わった先人たちの熱意に尊敬の念を抱かずにはおられない。

ちなみに「加賀の潜戸」は出雲国四大社のひとつ佐陀神社の祭神である佐陀大神が生まれた場所でもある。
潜戸のなかには鳥居が立っており、そこには佐陀大神の母神で神魂命の御子である枳佐加比売命がまつられている。
と、見てきたようなことばかり書いているが、実際、潜戸への観光船が出航する「マリンプラザしまね」まで行きはしたものの、潜戸遊覧船に乗ったわけではなく、パンフレットの受け売りである。

そもそもこの辺りは坂がきつい。
本当にきつい。
変速機がついていない我がFATBIKE。
最初座ってペダルを漕いでいたが斜度がきつくなると立ち漕ぎし、そのうち立ち漕ぎが無理になるとFATBIKEから降りて押すことに。
自転車、とくにスポーツサイクルといわれる部類の自転車で押し歩きをするのはスタイル的にどうよ、って感じがするが、漕げないんだから仕方ないし、選手でもないんだから楽しみ優先でいいではないかと開き直ればよいのだ。

マリンパークしまね近くの漁港から潜戸のある辺りを眺めて写真を撮ってから、向かったのは加賀神社。
神社のある加賀までは二つの長いトンネルと下り坂を抜ける。
松江市の島根支所をはじめ学校など公共施設が集中し、加賀神社も小中学校と並んで鎮座している。
メーンストリートを走っているとすぐに鳥居を見つけることができた。

しかしである。
鳥居をくぐると正面の拝殿には足場が組まれ工事用の幕ですっぽりと覆われていた。
屋根の上ではトンテンカンとやっている。
タイミング悪く改築工事の真っ最中であった。お参りはできるようだったので拝殿の前まで進み手を合わせた。
鳥居から40歩の距離。

祭神の枳佐加比売命は先述の通り佐陀大神の母神であり、また兄弟神に殺された大己貴命を妹とともに救った赤貝の神でもある。
かつて当社は「潜戸大明神」とも呼ばれていたという。
神話が語られる前から潜戸のような神秘的な自然の造形物に対する信仰があったに違いない。
それが潜戸内の神社になり、利便性から里宮的存在として当社が創建されたのだと思う。

写真は島根県松江市。

190514加賀神社説明

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・横田神社。

190510横田神社森山1

式内横田神社とされる森山の横田神社。
境内は境水道沿いにそびえる横田山の東の麓にある。
ここからは対岸にある境港の街並みが手に届くように近い。

境水道に沿った国道から海側の集落に入るとブロック塀の向こう側に鳥居を見つけた。
鳥居をくぐり石州瓦で葺かれた随神門をへて拝殿までは35歩、こぢんまりとした境内である。

「コケコッコー、コケコッコー」

手を合わせてお参りしようとしたタイミングで近所で飼われているニワトリが鳴き始めた。
まるで神社に現れた僕を不審者と思い警戒して集落中に知らせているかのようでもある。
拝殿の後方には大社造の本殿とともに向かって左側に摂社が二社、その横には卵形の自然石と石祠がまつられていた。
さらに本殿の右手にはしめ縄を巻かれたクスノキが立っており、その奥には山のなかに入っていくような入口があった。
何があるのかとても気になったが、さすがにひとりで入って行くのはためらわれた。

境内を歩いてから拝殿手前の石段に腰掛けてメモをしていたところ、一台の軽トラックが神社の駐車場に止まり初老の男性が出てきたので挨拶した。
あとから考えてみたら、境内の様子を見に来たのではないかと思う。
やはりニワトリが知らせたのかもしれない。

それはともかく男性は当社の氏子総代だと紹介されたので、神社についていろいろと話をうかがい、気になっていた山への入口の奥には何があるのかを尋ねた。

「行ってみますか?」

総代さんに誘われ木々の茂みに空いた入口を入って行くと斜面を上がる小道があり、周りは竹が密集していた。
竹と竹の間に両手の平でつかめてしまうほどの胴回りの太くない木に藁の束が巻きついていた。
リアリティのある造形ではないものの総代さんが顔を持ち上げると突き出した口の部分からそれが荒神さんの藁蛇であることがよく分かった。
荒神さんの祭礼は毎年十二月に行われるというが、急斜面を上がることは地区のお年寄りにとって難儀だそうだ。

境内に降りてからも総代さんは神社について話を聞かせてくださった。
総代さんの話と「式内社調査報告」の内容を合わせると、横田山がかつて尼子氏の家臣の山城だった当時、当社は山の西側に鎮座していた。
それが永禄六年に毛利方に降り落城すると当社も移転、古関の美保神社に合祀された。
その後、天正十九年、横田山の東である現位置に横田神社の社殿を設け美保神社をこちらに合祭した。
そのため「美保横田神社」とも称していたという。

当社は山頂に鎮座することなく山を起点に西から東へと移った、式内社としては珍しい事例ではないだろうか。
なお山頂には現在、金毘羅宮がまつられている。

写真は島根県松江市。

190510横田神社森山4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・門江神社。

190606門江神社旧社地2

出雲国の式内社訪問記をほぼ毎日書いているが、さすがにひと月を神社巡りに明け暮れていたのでネタに尽きることはない。

ところで書く順番について、これまでの国(伊勢国とか尾張国とかの国)であれば自分が訪ねた順に書いていたけど、出雲国に関しては訪問できる神社についてあらかた回ってから書き始めたので、「延喜式」に掲載されている郡と神社の順に書くことが可能だった。

門江神社は松江を去る前日に訪ねた神社の跡地、つまり旧社地である。
「式内社調査報告」には「八束郡誌」を引いて「東川津門戸谷 明治四十年合祀」と嵩山の布自伎美神社へ合祀されたと説明している。
明治四十年という年代からすれば愚策「神社合祀令」によるものであることは間違いなさそうだ。
「式内社調査報告」では門江神社にページを割いているものの、扱いとしてはあくまでも旧社地。
だから社がないのに行く意味があるのだろうかという葛藤があった。

松江での生活を終える前日の六月六日は天候にも恵まれ、サイクリング日和だった。
最後の最後まで旧社地であるという理由から門江神社をどうしようか迷っていた。
逗留先から近ければ行くのだが、これが案外遠い。
再度、嵩山に登る必要はないけど神社があった場所は山の麓である。
面倒くさいという気持ちがなかったわけではない。
結局、散々考えた末、行くことにした。
行かなきゃ後悔するかもしれないし、後悔しても松江を去ったあとではなかなか来られない場所だから。

松江駅近くの逗留先を北上し、島根大学から国道431号線を東へ。
松江刑務所の前をさらに進み、ひと月前に登った嵩山の麓を北に向かった。
スマホでグーグルマップを立ち上げると現在地は門江神社の跡地があるとされる上東川津町を指している。
神社の所在地である「東川津門戸谷」(「八束郡誌」)へは「西宗寺のところから東北にややあと返るやうに進めば門戸谷に至る」と「式内社調査報告」調査者の原宏氏は述べている。

現場に着き目印の西宗寺は見つかったが、そこからどう行けばいいのか、分かりにくい説明を頭のなかで反芻しながら現地の風景と重ね合わせようとするも、土地勘がないせいかお手上げ状態である。
こうなったらだれかに尋ねる方が手取り早いが、周囲にひとの気配がない。
洗濯物が干してある農家らしいお宅で声をかけてみるが、反応はなかった。
ここまで来ておきながら引き下がるわけにはいかない。
どうしようもなければ諦めるしかないか...

FATBIKEを置いて辺りを見渡すと、離れた場所から水が流れる音がした。
屋外の水道前にひとの姿があったので、すかさず神社の場所について尋ねた。
バイザーの上からタオルを巻いた完全装備のおばさんが自宅で飼っている牛に水を与えようとしていた。

「ここの近くに神社があったことは聞いているけど、その神社も嵩山の上に合祀したって。私ではよく分からないから」

そっけない返事だった。
でも諦めるわけにいかないから、スマホに保存しておいた「式内者調査報告」の写真を見せてなんとか場所を聞き出そうとした。

「隣の家が『宮ノ前』だからこっちかもしれないねぇ」

熱意が伝わったのか、おばさんは作業の手を休めて、自分の家の畑だからいいよ、と畑のなかを歩いて共用の通路へ案内してくれた。

「ここです、ここです」

「旧社地を望む」と写真説明にある旧社地へ至る通路が目の前にあったので興奮気味に伝えた。
畑の横を通るその通路はだれでも通っていい道というから、参道の名残なのだろう。

おばさんの案内でそのまま直進、ヤブのなかを入って行った。
草がぼうぼうと茂り竹も伸び放題だが、道の形跡らしきものはある。
さらに上がると平らな場所に出た。
苔と草に覆われた石垣がかつての境内を彷彿とさせる。
背の高い竹に覆われていて日差しが届かないこの場所には椎茸の原木がいくつか置かれているだけで神社の匂いはなく、あくまで旧社地でしかなかった。

「私、ここに来て四十年近くになるけど、この場所に来るのは初めて」

そういっておばさんは笑っていた。

改めて「式内社調査報告」を読み返すと、門江神社として考えられたのは当地にあった「国石大明神」、祭神は不詳だが国常立命する説もある。
社地は全体で三段になっており、上段の平地に本殿、御拝などがあり、中段に拝殿、下段は平地になっていた(「嶋根郡上川津村式内門江神社境内ノ図」)。

数枚写真を撮り、来た道を引き返すと作業に戻っていたおばさんにお礼をいった。
やっぱり来てよかった。

写真は島根県松江市。

190606門江神社旧社地3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・長見神社。

190510長見神社3

松江駅近くの逗留先を出発して一時間ほどすると道の駅が見えてきた。
信号以外ほぼノンストップで走って来たから、トイレとコーヒーブレイクを兼ねて休憩することにした。

併設のコンビニでコーヒーとパンを買って道路を渡り海が見えるベンチに向かった。
朝日が中海の海面に降り注ぎ、キラキラと反射している。
弓浜半島が美保関に向かって伸びているのもよく分かる。
当日の目的地は島根半島東端の美保関。
ここから目にする限りかなりの距離なので、海を眺めながら気合いを入れた。

再びサドルにまたがり坂を下ること十分ほどで長見神社が鎮座する長海地区に到着。
境内から少し離れた場所に立つ鳥居近くにFATBIKEを止めた。

鳥居の手前に立てられた案内板によると当地は武蔵坊弁慶生誕の地といわれる。
弁慶が病床の母弁吉から語られた母の生い立ち、自らの出生から幼少期・青年期までのことを書いた「弁慶願文」が社宝として奉納されているという。

立ち寄った道の駅から神社までの間には弁慶島という小島があったし、少し離れるが安来の出雲路幸神社(佐為神社論社)にも弁慶の腰掛け石があった。
弁慶の生誕については紀州とする説もあるようだが、出雲の地を走っていると何かにつけて「弁慶ゆかりの〜」というものを目にする機会が多く、僕のなかでは「弁慶=出雲人」というイメージが膨らんでいった。

入口に立つ鳥居から石段を上がり、屋根に葺かれた石州瓦が朝日にテカテカと反射する拝殿まで93歩。
また石段を上がりきったところには境内で一番背が高いスギの木が出迎えてくれた。
まずは参拝。
由緒の掲示はないが、先ほどの案内には天津彦火火瓊瓊杵命と木花咲耶姫が祭神と記されていた。

奥に回ると大社造の本殿と摂社が鎮座し、さらに数歩先には木の幹に藁が巻かれ、地面には幣串と小さな鳥居が立てられていた。
荒神さんの木のようだが、巻かれた藁蛇はすでに蛇の形状を失っていた。

境内を回り拝殿の階段に腰掛けるとここからも中海が眺められた。
弁慶も故郷の風景として思い出すことがあったかもしれない。

中海に浮かぶ大根島と江島、それと鳥取県の弓浜半島は1968年の干拓事業で陸続きになったと「島根県の歴史散歩」に書かれている。
そういえば出勤の時間帯ということもあってか、反対車線には鳥取ナンバーの車が多く見られるようになった。

写真は島根県松江市。

190510長見神社1

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・河上神社。

190514河上神社3

河上神社の社殿の位置は「川上」なのかどうか分からないけど、境内のすぐ前を川が流れていることからして、社名と現社地がとてもしっくりくる神社である。
境内にいても車が通行するような音はなく、聞こえてくるのは圧倒的に川の流れ、それと草刈機の音くらいか。

神社所在地は松江市上本庄町であるが、字に「川部」とつき、それは川辺、河辺でもあるそうである。
字名通り通りの境内地である。

境内正面に向かって右手には根元がどっしりとしてゴツゴツしたコブが特徴的なタブノキとみられる木が鎮座する。
かなりの樹齢であろうが、太い胴回りに根元近くから生えたヒコバエ、しっかりと伸びた枝から旺盛な樹勢が感じられた。
川の流れが近くにあることと関係があるように思われる。

神社の場所を落とし込んだスマホの地図を見ながら近くまで行ったものの、詳しい場所を突き止めようとするとは集落内をさまよわなくてはならない。
タイヤが太い明らかに目立つ自転車でうろついてはあやしい人物と思われそうである(すでに思われているだろうが)。
だから先手を取って地元のひとにあいさつし神社の場所を尋ねる。
すると、このひとは神社を訪ねてきたんだ、怪しいひとではないんだ、そういう印象を持ってもらうことができるではないか。

「すみません、近くに神社があると思うのですが?」
畑仕事をしていたおばあさんに声をかけた。
「まっすぐ行くと橋がありますけぇ、渡りしなに神社があります」

境内はそれほど広くはない。
鳥居はなく、先述のタブノキと思われる木が入口にそびえ立つ。
木が鳥居代わりなのかもしれない。
そこから拝殿まで15歩、まずは参拝。
大社造の本殿、裏手に回ると小祠や荒神さんなど小さな神々が本殿を囲むようにまつられていた。

由緒が記されたものは境内になく、「式内社調査報告」によれば祭神は大己貴命、高龗神、稲田姫命。
前後の二柱は出雲という地域的な神で、川の近くにある境内からすれば水神である高龗神が本来の祭神のようだ。

写真は島根県松江市。

190514河上神社1

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・久良彌神社、同社坐波夜都武自神社。

190514久良彌神社1

『「北門の良波の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」と詔りたまひて、童女の胸鉏所取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振りて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来縫へる国は、宇波の折絶より、闇見の国、是也』

「出雲国風土記」に出てくる国引き神話の一節だ。
国引き神話は、出雲の国が小さいことを嘆いた八束水臣津野命が、朝鮮半島の新羅や隠岐の島、北陸地方からそれぞれ余っている土地を引っ張ってきて島根半島を造成する壮大はスケールの神話である。

冒頭の文章は八束水臣津野命が三番目に引っ張ってきた場所についての記述である。
これを見ると、「北門の良波の国」から余った土地を引っ張ってきて「闇見の国」を作ったと読むことができる。
荻原千鶴訳注「出雲国風土記」の解説によれば、「北門」とは出雲国にとっての北の門、つまり隠岐の島を指し、「良波の国」については不明としながらも、「隠岐の島のいずれかの地域名とみるのがよい」という。

一方の「闇見の国」は、国とはいっても島根半島内の一地方で現在、久良弥神社がある辺りとしている。
現在では国名がそのまま生き続けているのは「椋見谷(くらみだに、久良弥谷)、久良弥神社の遺稿が存するにすぎない」とは「式内社調査報告」の記述である。

いざ久良弥神社へ。
中海沿いの道を走っていると道端に「闇見国総社久良弥神社」と神社へと誘う看板が出ていた。
看板が示す矢印に従って丘の際を山側に入っていくと鳥居が見えてくる。
どこからともなくトンボが飛んできた。
僕のすぐ前をつかず離れず飛びながら鳥居まで案内してくれた。

二本の鳥居をくぐり正面の拝殿までは50歩、まずは参拝。
いつ雨が降ってきてもおかしくない曇り空。
こんな日に神社に来る参拝者はおらず境内にひと気はなかったが、ウグイスを始め名前を知らぬ小鳥たちのさえずりがとても間近に聞こえ、同時に水場が近いせいかカエルも負けじと声を張り上げて鳴いていた。

久良弥神社の祭神は闇於加美神、水の神である。
水は生命のもと、水によって生かされている動物たちがこの場所で命を謳歌しているといえる。
だがもともとの久良弥神社は現位置から南西一キロ奥の「久良弥谷」に鎮座していた。
当時は久良弥神社と同社坐波夜都武自神社の二社が鎮座していたというが洪水のため現在地に遷座された。
風神である後者は速都牟自別神として久良弥神社に合祀されている。

写真は島根県松江市。

190514久良彌神社2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・多気神社。

190514多気神社2

多気神社を訪れた日の朝は雨が降っていた。

前日の天気予報では「明日は雨」と予想されていたので、当然、雨が降るものと思っていた。
ただ万が一降らなかった場合は出かけようと思っていたので、いつでも出発できる準備だけはしておいた。

いつものように午前四時半にベッドから出てコーヒーを淹れ、朝食の準備の前に近所のコンビニに山陰中央新報を買いに行った。
そのときはまだ雨は降っていなかった。
コンビニから逗留先へ戻る道すがら新聞の天気欄に目をやると雨マークが並んでいた。
朝食を終えて出発しようかどうかを悩んでいると、予想通り雨が降ってきた。
記念すべきかどうか分からないが、松江で暮らし始めて最初の雨である。

これで古社巡礼はなくなった、それじゃ今日はどう過ごそうか。
名古屋で休みの日にしてたようにスタバに行って本でも読もうと思った。
松江駅のシャミネには島根県一号店が七時から営業している。

逗留先からシャミネまでは小走りだと五分の距離。
雨といっても傘がいらないくらいの微弱な降りである。
早速コーヒーを注文。
席からはバスターミナルに並ぶ出勤、通学のひとたちの姿が眺められた。
自分もほんの少し前まではここに並ぶひとたちと変わらない生活していた。
コーヒーをすすりながら外を眺める自分は仕事をしていない。
それどころか名古屋から遠く離れた松江の地にやってきている。
目の前には松江の朝の日常が広がる。

そんなことを考えて過ごしていると、雨が上がったようだ。
念のためスマホで気象情報をチェックすると夕方ころに大雨が降る可能性はあるが、今後数時間は雨の心配はいらないという。

それならいまから行こう。
マグカップを返却台の上に返すとすぐさま逗留先に戻った。
雨が降っていなければ午前六時台の出発だったが二時間以上遅れての出発。

松江駅を北上し山中の道を抜けて中海に出た。
そこからは海岸線を走っていく。
日射しがない曇り空だけど、湿度が高く蒸し蒸しする。

一時間後、多気神社に到着した。
ちなみに曇り空のままだが雨は降っていない。
入り口にFATBIKEをとめた。
小さな境内だが本殿を囲む木々はどれも胴回りが太く立派なものだ。
鳥居をくぐり拝殿まで20歩、まずは参拝。
境内を歩くと、本殿を中心として左右二本の木にそれぞれ藁蛇が巻かれていた。
ふたつの組の荒神さんだろうか。
樹皮だけを見ると藁蛇がまきついた木はタブノキのようだけど、葉っぱの形が違う。
いまいち分からない樹皮に木の種類を覚えることの難しさを実感した。

境内の由緒によれば、当社がある地域にはもともと竹宮神社と津森神社という二社が存在していた。
竹宮神社は多気神社と称していたが、音が同じことから天文年中には竹宮と称するようになった。
女嵩の山麓にあった竹宮神社は参拝に不便なため、神社合祀令により明治三十九年、中海に近い津森神社と合併し竹宮神社と改めた。
その後、大正五年多気神社として旧に復したという。

一方、「式内社調査報告」には、多気神社の多気が嵩に通じることから、嵩山の布自伎美神社に合祀されている多気神社も当社とする説があるという。
境内の由緒には祭神として武甕槌命と経津主神という春日二神が記されているが、布自伎美神社に合祀された多気神社の祭神は大己貴命とされる。

写真は島根県松江市。

190514多気神社5

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・布自伎美神社。

190510布自伎美神社5

出雲國の式内社の大部分は山上など山に関係する場所に鎮座する...

これは僕が実際に各神社を回った感想である。
出雲地方にはお隣、伯耆国にそびえる大山級の標高の高い山はないけど、島根県全体の地図を見る限り平野部よりも山地・丘陵地が圧倒的に多い。

だからそもそも変速機のついていないFATBIKEで回ろうと思うこと自体が無謀なんだけど、その無謀なことをやってしまったいまでは本当によくやった、と自分を褒めてやっている。
おかげで四十五歳でもやろうと思えばできることは多い、という自信感につながったのだから。

意宇郡の神社の次は嶋根郡の神社を見ていこう。
「延喜式」で同郡十四座の初めに記されている布自伎美神社。
標高326mの嵩山の山頂近くに鎮座する山上の神社である。
松江駅近くの逗留先を出て島根半島東端に向けてペダルを漕いだ。
半島先端に鎮座する美保神社から境港と大根島を経由して布自伎美神社が鎮座する嵩山の登山口に到着したのは午後三時だった。

美保神社までの道のりは海岸沿いとはいっても対岸の境港のように平たんではなく、小さなアップダウンの繰り返し。
でも海に目を移すと太陽に照らされて海面がキラキラ光っている。
ペダルを漕ぐことに必死になると周りの風景を見る余裕がなくなる。
だから時折、FATBIKEから降りては美保湾や中海を眺めた。

五月初旬の松江は湿度が低くからっとしていた。
嵩山の登り口には竹の棒が数本立てかけてあったので一本借りて登ることに。
途中、下山するふた組のひとたちに挨拶しながらただ黙々と上り坂に歩みを進めた。
木々の隙間から見える風景から標高が高くなっていることを知った。

登り口からスタートして二十五分。
前方に鳥居を見つけ、山頂に近づくとそれまで登りだった道は平たんになった。
鳥居から拝殿まで222歩。

参拝の前に切れ気味の息を整えるため展望台に向かい驚いた。
なんという光景だろう。
当日走ったルートである島根半島と境港をつなぐ境水道大橋、半島と大根島をつなぐ江島大橋のすべてがミニチュアの如く眼下に広がっていた。
まさにここまで頑張ったご褒美である。

ベンチに腰掛けてこのままずっと眺めていたい衝動に駆られるも、残念ながら予定上は次に向かう神社もある(結局、疲れのため断念)。
再び拝殿に向かい手を合わせたあと、後方の本殿に回り込んで観察。
本殿は流造で、少し高い位置に末社が二社まつられていた。

「式内社調査報告」によると祭神は素戔嗚尊の御子である都留支日子命。
嵩山にはかつて松江藩主自身も登拝したことがあるそうだ。
また明治期の神社合祀令で同じく嶋根郡の式内社である門江神社も当社に合祀された。

登山というのは足だけで登っているように思えるが全身運動であることを学んだのは翌日。
体全体が筋肉痛になっていた。

松江での生活がスタートし神社を回るのは三日目。
始まったばかりの生活にテンションは高く「十勤一休」を平気で公言していたものの、この日を境に「三勤一休」に変更を余儀なくされた。

先は長い、無理は禁物だと...

写真は島根県松江市。

190510布自伎美神社4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・久米神社。

190530久米神社(里宮)1

伊邪那美命が眠るといわれる比婆山山頂。

安来駅から一時間をかけて走ってきて、久米神社の奥宮が山の山頂と知って「まじか」と少々落胆した。
実際の標高は320mと高くないが登山には変わりない。
どうしても次の訪問先があるわが「FATBIKE古社巡礼!」
一日の予定のなかに低山であっても登山があるとなると気持ち的に少々重荷になる。
でもそこに神社がある以上、登らないわけにはいかない。

里宮に到着し、鳥居をくぐって拝殿まで47歩。
拝殿後方に回り込むと、本殿の建物は出雲地方には珍しい神明造である。
参拝してから奥宮まで登ろうか逡巡していると鳥居の手前に蛇の脱皮の抜け殻が落ちていた。
俗信では蛇の抜け殻を財布のなかに入れていくと金運が上がるといわれてる。
あいにく抜け殻は蛇の体そのままの状態で落ちていたからそれを刻んで財布に入れる勇気はなかったけど、金運上昇アイテムを目にしたようでとてもラッキーな気分になった。
だからその勢いで登ってしまおう。
山頂に奥宮がある以上、登るのがわが古社巡礼の作法でもあるから。

拝殿に向かって左側に登山道の入口がある。
蛇の抜け殻はいいけど中身である本物は出ないでね、と心のなかで祈りながら登り始めた。
案内によれば山頂まで1050mの距離。

午前8時半に登り始め、山頂に到着したのは手元の時計で8時55分だった。
木々の間の道を通り抜け、山頂近くの大鳥居から奥宮の拝殿まで280歩。
まずは参拝。
山頂にある説明によると奥宮が鎮座する比婆山は出雲国と伯耆国の境に当たるようで奥宮の扁額には「雲伯堺」の文字が見えた。
本殿の後方には草に覆われた盛り土があり、説明によれば伊邪那美命の陵墓とある。
近くで観察すると円墳のようだ。

伊邪那美命は死後、黄泉の国へ入った。
夫である伊邪那岐命は妻に会おうと黄泉比良坂を越え黄泉の国に入ったがすでに妻は、死後の世界の食べ物を口にしたため戻ることができない。
古事記にはそう書かれていたことを記憶している。

黄泉比良坂といわれる場所が揖夜神社の西側にあり、古墳がある当社はそのさらに東側にあるので、位置関係からすれば黄泉の国は松江の東側に存在したということになる。
神話のなかの存在である神が墓に葬られるというのはあまりにも人間的な話である気もするが。

「古事記編纂1300年 参拝記念」と書かれたスタンプをノートに押して再び下山した。

写真は島根県安来市。

190530久米神社(奥ノ宮)2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・田面神社。

190530田面神社1

お昼に近づくにつれ降り注ぐ日差しが一段と強くなった。
FATBIKEに乗って走っていると日光をもろに浴びる。
本当は曇りくらいがよいのだけど、晴れているからこそのサイクリングである。

松江での暮らしを始めてからというもの、雨の日は通算四日ほどだった。
生活の大部分を自転車での古社巡礼が占めるので晴天はありがたい。
でも一方で農家さんにとっては田植えの時期だけに、恵みの雨が降らないわけだから心穏やかではなかったことだろう。

FATBIKEをとめてスマホの画面を確認すると、神社の場所は近くにあるはずなのにそれらしき場所が見当たらない。
式内社巡りの旅ではよくあることだけど、実際にそんな場面に出くわすとやっかいだが、こういう場合はあたふたする前に地元のひとに尋ねるのが一番だ。

畑仕事をしているおばさんがいたので目的地である田面神社の場所について尋ねた。

「あぁ、タノモーさんね。どう説明したらいいかな」

仕事の手を休めて、手袋を外しながら歩み寄って僕のスマホを手に取り、「そうだね、どうやって行ったらいいかな」と場所について思い出しながら「細い道」「公会堂」「ごみ捨て場」などをキーワードに行き方を教えてくれた。
僕が自転車で神社を巡っていると話すと、田面神社では三月に五穀祭が、つい最近はマムシ除けの砂をもらう神事があったばかりだという。

マムシ除けの砂はもらってきて田んぼや畑に撒く。
いまではほとんど見ることがなくなったけど、昔は田植えの時期になるとマムシが結構出たそうだ。
農機がない時代には手植えをしていたのでマムシに出くわすとかまれることがあった。
まじないのような神事は手植え時代の名残といえる。

話好きなおばさんとは、神社の場所から最近の神事の話になり、それから天候の話、数日前に行われたホーランエンヤの話題へと移っていった。
お稽古事の関係で前回2009年の祭礼を見に行かれたそうだ。

「ひとが多いけんね、今年は見に行かんかったんよ」

自分の母親と同世代のおばさんは話のなかに時折出雲弁が混じるけど、イントネーションは不思議と関西弁よりも名古屋弁に近いから、違和感を感じず話をしていた。

その後、教えてもらったルート通り、ひと山越え公会堂を右折したところまではよかったけど、その先が不安だったので通りかかりのひとに神社の場所を尋ねた。
すると「バイクは入れませんよ」と注意された。
「これ自転車です」と反論するより早く神社に行きたかったので、「ありがとうございます」とお礼をいって神社に向かった。

確かに神社の場所は分かりにくい。
民家の奥の裏山といった雰囲気だ。
標柱が立っていたのでかろうじて参道であることが分かった。
石段を上がり吸い込まれるように森のなかへ。
小さな本殿まで50歩、まずは参拝。

「式内社調査報告」によれば神社が鎮座する丘陵には「大小の古墳が多く、出土品も多々出ている」との記述があるが、現場では古墳の有無に関する説明はなかった。
でも静かでひっそりとしているから古代人が眠るにはちょうどよい場所である。

写真は島根県安来市。

190530田面神社3
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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