名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

出雲国

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國出雲郡・同社神大穴持御子大社。

出雲大社神楽殿に吊された注連縄はとてつもなく巨大である。
テレビでは何度も見たことあるけど、映像を通して見るより実際は何倍も大きく見える。
百聞は一見にしかず。
出雲大社のホームページによると長さ約13メートル、重さ5.2トン。
よくこれだけ大きな縄を巻いたものだと感心しながら見上げた。

注連縄だけでなく、かつての出雲大社自体も巨大な建物だったという。

「雲太・和二・京三」

平安時代における当時の巨大な建物を比較した言葉だか、出雲大社は大和の大仏殿や京都の京極殿よりも高い建物だったから「雲太」と表現されたようだ。

古代の技術で高層の建物が可能かどうか議論があった。
それが平成十二年、境内付近から巨大な柱が発掘された。
国譲りの条件である、大国主命が隠棲する巨大な神殿の所在と、巨大建築物が建築可能であったことが裏付けられた。

巨大神殿が鎮座していたころの出雲ってどんな風景だったのだろう。
そこにはもちろん神殿の大きさにふさわしい巨大な注連縄が吊されていたはずだ。

神楽殿の横を流れる素鵞川に沿って歩いて行くと駐車場を過ぎた辺りからひと気がなくなる。
背の高い木々が林立する道をそのまま進むと橋があり、たもとには「福迎の社、この先三歳社」と書かれた看板があった。
橋を渡り高台に上がると大社の摂社である三歳社の小さな社殿が鎮座していた。

息を整え手を合わせようとしたその瞬間、下の方から車がこちらに向かってきた。
と思ったら、社のすぐ上を通っていった。
一体どういう道かは分からないけど、深山幽谷という言葉がぴったりな神の杜を歩いてきただけに、拍子抜けだ。

三歳社は「延喜式」では同社神大穴持御子神社という。
その名の通り、大穴持命の御子である事代主命と高比売命の二柱、そして御年神がまつられている。
車さえ通らなければとてもひっそりとした静寂さが支配するこの場所も一月三日の福迎神事の日だけは遠方からも大勢の人々が参拝するのでとてもにぎわうそうだ。
僕はむしろ、静かなときに来れてよかったと思った。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國出雲郡・同社神魂伊能知奴志神社。

出雲大社を東側の出入口から出て北島国造館前の「社家通り」と呼ばれる道を命主社の方向へ向かった。

その途中、「出雲の森」と呼ばれる場所がある。
鬱蒼と茂った森を想像していたけど通ってみると玉垣のなかに一本、木が植えられているだけだった。
見たところ森とはいいがたい印象だったが、注連縄を巻かれた神木の周りを玉垣で囲い、入れないように柵で閉じられている様を見ると、ただならぬ雰囲気を感じた。

そのまままっすぐ歩いていくと命主社へつながる参道の入口に出た。
狭い道の先には社があるのだが、その社の前に巨大なムクノキの巨木が胴をよじらせたような状態で鎮座していた。
胴に刻まれたシワのある樹皮、まるで恐竜の足を思わせる。
前方のムクノキの存在感が大きすぎて後方に鎮座する社はおまけ程度にしか見られない。
出雲の森は、本当はこちらのことを指すのではないかと思われるくらいの森感であった。

当社は「延喜式」の同社神魂伊能知奴志神社に比定されている。
「伊能知」という言葉、たしか出雲大社境内の瑞垣内に鎮座する天前社が同社坐伊能知比賣神社であったことを思い出した。
「式内社調査報告」によると伊能知とはまさに「命」のことのようだ。
大国主命が兄の八十神に焼石を投げつけられ殺されたとき、蚶貝比賣命と蛤貝比賣の二神が助けられたことで再び命を吹き返した。
蚶貝比賣命と蛤貝比賣は命を救った恩人、つまり命を救った比賣をまつるから「伊能知比賣神社」とされる。

それなら当社はどんな恩人かといえば、祭神である神産靈神はそもそも二神の降臨を命ぜられたことから命の大恩人というわけだ。
少々、強引な展開だし、だったら大恩人の方が境内に入るべきとツッコミを入れたくなる。
でも大国主命にとってみれば比賣神に助けられたことの方がよほど嬉しかったのだろう。
男子ならきっとそう思うはずだ。

そんなことを思いながらベンチに座ってメモをとっていた。
境内には「信徒館」という建物がありブランコや滑り台といった遊具があるが、単なる公園ではないようだ。
銅戈や勾玉が出土しているれっきとした遺跡だそうな。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國出雲郡・杵築大社、その四。

出雲大社の本殿が鎮座する広い瑞垣の外を東側(右手)からぐるっと一周した。

東西には神在月に全国の神々が集まる末社十九社本殿の長い建物がある。
僕が訪れたのは五月なので時期的に神々はいないが、立ち止まって手を合わせた。

しばらくすると瑞垣内に桧皮葺屋根の社殿二棟が見えてきた。
垣根があるので全体像は確認できないが、手前に鎮座するのが天前社といい「延喜式」上の同社坐伊能知比賣神社、その向こう側が御向社で同じく同社大神后神社である。
垣根に張られた説明によれば天前社には蚶貝比売命と蛤貝比売命が、御向社には素戔嗚尊の娘神である須勢理毘売命がまつられている。

本殿裏手の小さな摂社を参拝しながら西側へ移ると先ほどと同じように垣根の上から筑紫社の屋根が見えてきた。
「延喜式」には同社神魂御子神社の社名で記載されており、祭神は多紀理比売命。
瑞垣内の三社には近い場所からそれぞれ手を合わせ再び正面に戻った。

休憩所のベンチに腰掛け辺りを見渡すと、少しずつ参拝者が増えてきているようだけど、まだまだ朝の静けさは保たれていた。
松江での「プチ移住」が終われば次はいつ来られるか分からない。
そう思うと、境内に立ち込める澄んだ空気を思いっきり体に取り込みたくなった。

いま考えてみると、出雲大社だからというよりも出雲国にやって来てひたすら神社を回っていたことで、それまで体内にあふれていた淀んだ気が澄み切った気に浄化された。
それは島根滞在期間中だけのことではなく、こうして名古屋に帰ってきたいまでも浄化の余韻が続いている。

帰宅後の自分はひとが変わったようだった。
真っ黒に日焼けして体が引き締まった外見とともに中身もひと月という短い時間で常に前向きな気持ちを持てるようになった。
もちろん辛いことや大変なことは日々多い。
けど、それらを何とかうまくかわし、気持ちの振り幅を少なくして、以前ならよくおちいっていた不安定な気持ちにならなくなった。
そして四十路半ばであっても変わろうと思えば変わることができるし、挑戦や成長も可能であることを学んだ。
だからこそ松江での暮らしは自分にとってとても貴重な経験だった。
目に見えないところでは出雲の神々が僕の活動をバックアップしてくれていたのだろう。
ひと月無事に暮らせれたのはそのおかげだと思う。

ベンチに座り込むとその場を去り難い気持ちだが、当日は出雲大社を皮切りに周辺の神社を回る予定でいた。
後ろ髪を引かれる気分だけど立ち上がり、境内をあとにした。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國出雲郡・杵築大社、その三。

出雲大社の境内。
一般の参拝者である僕が瑞垣のなかに入ってお参りすることはできないので、正面の門から本殿をのぞき見るしかない。

「ようやくやって来ました」

手を合わせながら心のなかであいさつする。

祭神である大国主命は別名の多い神である。

「大物主神」「大穴持命」「大己貴命」「葦原醜男」「八千戈神」「大国玉神」「顕国玉神」

なかでも「大穴持命」は出雲国を旅すると社名に冠する神社があるくらい、大国主命よりもポピュラーな神名だと思う。
個人的に「大国主命」という、国を作った主というような下から仰ぎ見ないと恐れ多い名前よりも「オオナムヂ」(「大穴持命」「大己貴命」)という名前が好きである。
日本語っぽくない語感にミステリアスさもあるが、それでいて何となく親しみやすい感じを受ける。
水木しげるの「水木しげるの古代出雲」に出てくるコミカルな姿に引っ張られているのかもしれない(同書では「オオクニヌシ」と書かれている)。

ちなみに僕自身、結婚式を妻の実家がある岐阜県内の某三輪神社で挙げた。
この神社では祭神である大国主命を「ダイコクさん」と呼んでいたがもちろん「オオナムジ」でもあり、僕たちが結婚の誓いを立てた神さまなのだ。
二人では大和の大神神社にも参っているし、松江「プチ移住」期間中には古社巡礼とは別に出雲大社を参拝している。
大国主命=大物主命=大穴持命ラインは出雲と大和のほかにも全国にまつられているだろうから、僕たち夫婦は出雲を筆頭とする全国の「オオナムジ」神に守られている(はず)である。

余計な話をしてしまったが、「式内社調査報告」を見ていると不思議なことに気づいた。
「延喜式」上、大和、伊勢に続いて神社数が多い出雲国だが、名神大社の数は二社しかない。
そのうち意宇郡では熊野坐神社が筆頭に挙げられているので出雲郡では当然杵築大社かと思いきや筆頭は「大穴持神社」となっている。
「出雲国風土記」では「杵築の大社」が筆頭で「大穴持神社」自体が見られない。
風土記完成から延喜式編纂までの間に新設されたのだろうか、名神大社ではないけど筆頭ということは杵築大社よりも格上ということなのだろうか、という疑問がわく。
でも基本的には「大穴持神社」と「杵築大社」では先に挙げたように祭神名が違うというだけで同じとされる神をまつっているので、並立する意味がないと思うのだが。

この点に関して「日本の神々」では杵築大社の元の祭神が素戔嗚尊ではなかったかと述べている。
「出雲国風土記」、意宇郡の条で出雲郡は朝鮮半島の新羅の岬から引っ張ってきたとされる。
「韓國」という名を冠する神社が見られるのも出雲国の特長だけど、祭神が素戔嗚尊やその御子である五十猛命であることを考えれば、あながち可能性がないともいえない。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國出雲郡・杵築大社、その二。

松江からFATBIKEを自転車の状態のまま一畑電車に載せて一路、出雲へ。

出雲大社駅から大社の入り口鳥居のある場所まで走っていき写真を撮ろうとすると、すでに石段近くで案内を聞くために数人のグループが集合していた。
朝早いというのにさすがは出雲大社である。
いや、お参りは朝だからこそいい。

島根県内で一番の観光地でもあるだけに一日を通して参拝客が多いことだろう。
前回、大社を訪れたのはまだ平成の大遷宮が行われている最中だったが、日中ということもあり、すごいひとだったことを記憶している。

FATBIKEを駐車場脇にとめておき再び鳥居に戻り、いつもするように拝殿までの歩数を測った。
一の鳥居は一畑電車の駅の向こう側、堀川にかかる橋のたもとにあるけどそこはご勘弁いただき、勢溜の交差点向かい側の鳥居をお辞儀をしてくぐり、歩き始めた。
長い長い参道が一直線に続いていた。
並木として植えられた胴回りが太く立派なマツに見とれながら歩いていると、いろいろなことを思い出した。

前年に父親が亡くなり、とき同じくして僕の体にも異変が現れた。
下腹部、足の甲、尻など至るところに湿疹が出た。
かゆいので掻くと今度はウミに悩まされるようになった。
さらに、それがかさぶたになるとまたかゆくなる、その繰り返し。
皮膚科を受診するも原因は分からないし、単なる湿疹としか診断されなかった。
処方された薬を飲み、本当は塗りたくなかったステロイド系軟膏を塗りかゆみを収めなんとか仕事を続けていた。
それだけでなく夜な夜な寝ていても仕事のことが頭から離れないし、休日にも仕事関係の携帯が鳴る。
精神的に限界に近づいていた。
父親が亡くなった当日にも仕事を休めないという状況にも辟易した。
そんな状況が改善さえることもなく、当たりまえとさえ考えるような代表者。
やってられないと思い辞めることを決意、そして三月の末、建前上は休職という形をとって仕事から離れることになった。
やっとやめられたという解放感とともに僕の頭に出雲国の式内社巡り浮かんだことは、なんども書いていることである。
せっかくの時間、かねてからやりたいと思っていたことをやらなきゃ損だ。
そうして松江で「プチ移住」が始まった。

出雲国の神社でも圧倒的存在感を持ち、松江での古社巡礼の「本丸」でもあった杵築大社こと出雲大社。
松江にやって来て初めて訪れた神社にも大社造の本殿がまつられていた。
ここでは小さな神社も出雲大社の影響を受けているし、他の神社を回っている最中にも出雲大社の存在を意識することがあった。
よそ者の僕にとって単に珍しさからそう感じただけかもしれないけど。

参道を歩いていき、重厚な桧皮葺の拝殿まで700歩。
とうとう来たんだなと思いながら賽銭を投げ、二拝四拍手一拝の作法で手を合わせた。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國出雲郡・杵築大社、その一。

松江市内の逗留先のマンションから出雲大社に早く楽に行くにはどんな手段を使えばいいだろうか? 
もちろんFATBIKEというお荷物を持っての話である。
考えられる手段としては宍道湖の南岸を走るJRと北岸の一畑電車。
自走もあるがここでは交通手段を使って、ということにする。

まずはJR。
松江駅から始発の山陰本線で出雲市駅までは午前六時四十一分発、七時二十分着、運賃は590円。

一方の一畑電車。
松江しんじ湖温泉駅からの始発は川跡駅乗り換えで着駅は出雲大社前。
六時十九分発、七時二十二分着、運賃は820円。

出雲市駅と出雲大社駅の違いがあるので一概に比較はできないが重要なのは「楽に行く」ことである。
マンションから駅まで徒歩五分の距離や運賃、時間をみればJRがいいようにも見える。
しかしFATBIKEを輪行するという手間が生じる。

松江での暮らしを初めて以来、出雲国の神社を回る順番は「延喜式」記載順とは関係なく、逗留先から走って行ける順だった。
そうなると自然、松江から近い場所が優先される。
初めは ̄路自走+復路自走だったものが、次第に往路自走+復路輪行になり、そのうち1路輪行+復路輪行となっていった。

輪行の最大のメリットは電車などの手段を使えばペダルを漕がずして遠くに行けること。
半面、慣れないと自転車の分解・組み立ては面倒くさいし、輪行バッグを担いで歩くのは自転車自体を担ぐよりも重たく感じられる。
ただでさえ普通の自転車よりも大型のFATBIKEはなおさらだ。

「延喜式」上、後半に記載されている出雲郡へは松江から遠いので自ずとになることが多かった(たまに復路自走という選択肢もあったが、それは体力があるときに限られた)。
だからメンタリティーとしてはできるだけ面倒な輪行を避けたいという思惑が働く。

で、改めて最初の話に戻ると、時間や運賃からすればJRに分があるけど、一畑電車では自転車をそのまま載せられるサイクルトレインを実施していることが大きかった。
別途料金が必要だが回数券を販売しており、お値打ちに利用が可能である。
松江から一時間かかってしまうとしても一回数十分の時間がかかる輪行がないだけ「楽」なのだ。

ということで、松江しんじ湖駅まで自走し、始発の一畑電車にFATBIKEごと乗り込むことにした。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・許豆神社。

許豆神社は延喜式上、不思議というか珍しい神社のひとつである。

延喜式を眺めていると時々同じ名前の神社を見つけることがある。
これまで「大井神社」や「大水分神社」、「丹生神社」なんかは何度も訪ねたことがあった。
同名の神社とはいっても尾張や伊勢といった国が違ったりその下の郡が違ったりしていた。
同じような地形があればそれを目にしたひとが同じような神性を感じ同じような名前をつける。
そこには「同じ名前をつけようぜ」といった横の連携があったわけではなく、似たようなものの感じ方、メンタリティーを当時のひとたちが持ち合わせていたからなのだろう。

しかし許豆神社の場合は同じ社名の神社とはいっても出雲国楯縫郡のなかで隣あって存在している。

能呂志神社
許豆神社
許豆神社
水神社

といった具合で。

式内社を訪ね始めて四年ほど、まだまだ訪ねた国の数は少ないけど、これまでの経験上、こういったケースは珍しい。

その許豆神社はそれぞれ「北の宮」「南の宮」と呼ばれている。
二つの神社が鎮座するのは十六島湾の湾入部の集落近くで、ともに山の中腹のような場所にまつられていた。
地図上にはちゃんと神社記号があり決して分りにくい場所ではないものの、実際たどり着くのに難儀したのを記憶している。

「北の宮」の場所を尋ねようとひとを探していたところ、港近くの建物からトントンと何かを修理するような音が聞こえてきた。
声をかけると建物のなかから男性が出てきた。

「ここから100mくらい行ったところを左に入ると階段があるんです」

すでに何度も通っていたから階段なんてあったかな、というような表情をしていたのだろう。

「一緒に行きましょうか」

荷台に板を載せた漁師仕様(?)の自転車で神社の前まで連れてってくれた。

写真を撮ろうとFATBIKEを止めるも先客の車が止まっていた。
車体には「出雲市」の文字。
用件はすでに終わったらしく車はすぐに出ていった。
神社の案内をしていたのかひとり残った氏子のおじいさんに声をかけた。

それをきっかけにいろいろなことを立ち話した。
とくに僕が愛知県から来たこと、ひと月松江に滞在しながら神社を回っていることに興味を持ったらしい。

「そんな話なかなか聞けないから、コーヒーでも飲みながら聞きたいけどね。あなたも忙しいだろうから」

先ほど車が止まっていた場所を進むと鳥居が立っている。
石段を上がり境内に出ると正面に拝殿が建っていた。
鳥居から70歩、まずは参拝。
境内からは向かいの山に建つ「南の宮」の鳥居を眺めることができる。

一見するとありふれた神社の境内だが、かつてここには古墳があり勾玉などの副葬品が多く出土した。
古墳はすでになく、副葬品は東京国立博物館に収蔵されている。
氏子さんは立ち話の間にいろいろな話を聞かせてくださった。
十六島湾をのぞむ山塊の尾根には古墳がたくさんあること、許豆神社は北の宮、南の宮だけでなく五ヶ所あったことなど興味深い話がたくさん出てきた。
さらに氏子さんの甥は愛知県在住、トヨタ自動車にお勤めだそうで、そのため名古屋にも何度か行ったことがあると話していた。

「いつか名古屋にも来てください」
「飛行機に乗ればすぐだから丈夫なうちにもう一度くらい行きたいとけど。都会は苦手で...」

十六島湾とそれを取り巻くような豊かな緑を目にしていたせいか、最後のひと言がとても印象的だった。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・能呂志神社。

能呂志神社の境内に入り手水で手と口を清めようとした。
くぼみがあいた自然石に水を落とし込めるよう水道の蛇口が伸びている。

蛇口に手を伸ばそうとしたところ、カメラのストラップの付け根のヒモが切れてしまった。

僕が携行しているのは一眼レフではなく、コンパクトデジカメ。
付属品としてハンドストラップスがついているのだが、心もとないからと首にかけるタイプのストラップを購入して使っていた。
これが案外便利で、自転車に乗りながらも肩にかけておけばとっさの瞬間にも撮りやすく、境内に入ったときもカメラを手で持つよりも肩にかけておいた方が何かと都合がよい。
もちろん参拝時には手を合わせるから邪魔にならない。

ただ一眼レフのような重量のあるカメラのストラップと違い、カメラ本体につなげるヒモは細くて心もとない。
大丈夫かなと思っていたら案の定、切れてしまったわけだ。

そういうイレギュラーな事態が発生すると「縁起が悪い」と思ってしまうのがひとの常。
でもここは神社であるし、僕が出雲にやって来たのは神社を回るためである。
そこでこう考えることにした。
何か別の悪いことが起こるかもしれなかったのが、ヒモが僕の身代わりになってくれた、と。
考え方なんてひとそれぞれだけど、悲観しても仕方ないので、万事楽観的に考えようと思う、とくにこの旅では。

さて、能呂志神社の社名から単純に「狼煙」を連想した。
神社の背後には山が連なっている。
いまのような通信設備がなかった時代に敵襲を知らせる手段としての狼煙。

残念ながらその「狼煙」案は違うらしい。
「出雲国風土記」で楯縫郡の神社一覧を見ると、能呂志神社に該当する神社として「乃利斯の社」が挙げられている。
式内社が「のろし」であるのに対し風土記では「のりし」と読む。
もともと「のりし」であったが、何かの事情で延喜式編纂時には「のろし」に変わったと考えられる。

能呂志神社には南側に旧社地があるそうだ。
暑さと坂道の多さにそこまで行く気力がなかったが、後々「式内社調査報告」で不思議な伝承のことを知り、行ってみればよかったと少々後悔した。
そこには「海苔石」という石があり、それは「冬季海中、海苔が生ずるときにはこの石にも苔が生える」驚きの石であった。
そのため旧社地辺りはノリイシダニ、ノリシダニ、ノシダニなどと呼ばれていたが、時代がくだるに連れて「のろし」と呼ばれるようになったという。

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・御津神社。

以前にも書いたような気がするが、松江に到着した日の夕方、あらかじめ調べておいた酒蔵で一升瓶を一本買い、次に米屋さんで島根県産のお米五キロを買った。
用事は済んだけどそのまま家に帰るのもなんだからと大橋川沿いにある小さな公園のベンチに腰を下ろした。

そこそこ人生経験を積んだ四十台半ばとはいっても名古屋以外の土地で暮らすことに対して緊張や不安がないわけではない。
これからどうなるんだろう、ひと月無事に過ごせればいいが...川の流れを眺めながら、これから始まる生活に思いをはせた。

すると近くにいた自転車のおじいさんが声をかけてきた。
FATBIKEの大きく太いタイヤが目につき話しかけてきたようだ。
僕が名古屋から来て今日松江に到着したこと、ひと月限定で松江に滞在しながら出雲国の神社を巡ることを話した。

「ひと月でね。でも大変だと思うよ。坂も多いしね。松江のような町なら道路も整備されているけど、町から離れると道も狭くなるし。とにかく気をつけて行ってきなさい」

おじいさんの忠告によると出雲国は山、つまり登り坂が多いとのことだ。
もちろん旅を終えたいま振り返っても地元のおじいさんの言葉通り、坂道にどれだけしんどい思いをさせられただろう。
このブログでも古社巡礼といいながら神社に対する思い以上に、登り坂に対する恨み節を多く書き連ねてはいまいかと思ってしまうくらいだ。
ただ無知とは怖いもので、そのときは出雲の神社を二週間ほどで終わらせて石見に行こうと真剣に考えていた。
よほど現実を知らなかったというしかない。

出雲国の道のりが思った以上に厳しいことは日を追うごとに体に刻み込まれていった。
宍道湖北岸から山塊を越えて日本海側へ。
ペダルを漕げるところは漕ぎ、勾配がきつくなれば自転車から降りて押して歩く、その繰り返し。
認識の甘さ、確かにそうだ。
一方、自転車の楽しさや爽快感も同時に味わうことになる。
きつい登り坂を越えればその分、長い下り坂が待っている。
束の間のご褒美。
サドルから腰を浮かしクランクを地面と平行にしてバランスを崩さないように力強くハンドルのグリップを握る。
前から吹く風が冷たすぎて風邪を引きそう、というのは大げさだけど、それまでに流れた汗が一気に乾いてしまうようだった。

御津神社の境内は山塊から日本海へ抜ける途中の山のなかに鎮座していた。
下り坂の快感に浸ってしまい危うく見過ごすところだった。
急ブレーキをかけて止まり鳥居の前に戻った。
所在地だけを見れば木々が繁茂する山中に鎮座する神社だが、御津という社名と北側、つまり海を眺めるように鎮座するその位置から海に関係する神社であることが分かる。
入口に立っていた案内板によると当社は何度かの変遷をへて現在地に定まったという。

鳥居をくぐり石段を上がり境内へ。
まず目についたのが向かって左手の土俵と入口近くに立つクスノキとケヤキ。
ひと気のない境内を拝殿に向かって歩く。
入口の鳥居から69歩、まずは参拝。
拝殿は少し扉が開いていて、なかをのぞくまでもなく奥に電灯がついているのが見えた。
防犯目的だろうか。

御津神社が鎮座するのは出雲市三津町。
社名も地名も「みつ」と読む。
ちなみに社名と同じ御津という地名が佐太神社から近い鹿島町の日本海側にある。
僕は御津神社があるのはこの御津だと勘違いをしていた。
ちなみに御津の名物は「さばの塩辛」
塩辛なんて食べたこともなかったのに、これをピザに載せて焼くとまさに和製アンチョビ、さすが島根の海の幸! 

御津神社からまったく関係ない場所の宣伝をしてしまった...

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國楯縫郡・多久神社。

多久神社の北側にそびえる大船山。
「出雲国風土記」には神名備山として記されている。

「嵬の西に石神在り。高さ一丈、周り一丈。往の側に小き石神百余り許在り。古老の伝へて云はく、阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命、多宮の村に来坐して、多伎都比古命を産み給ひき。尓の時、教し詔りたまひしく、「汝が命の御祖の向位に生まむと欲ほすに、此処し宜し」とのりたまひき。所謂石神は、即ち是、多伎都比古命の御託なり。旱に当りて雨を乞ふ時は、必ず零らしむる也」

「峰の西に石神がある。高さ一丈、周り一丈。道の傍に小さな石神が百余りある。古老が伝えて言うことには、阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多宮の村までいらっしゃって、多伎都比古命をお産みになった。そのときお腹の中のこどもに教えておっしゃったことには、「おまえのお母様が今まさに生もうとお思いになるが、ここがちょうどよい」とおっしゃった。いわゆる石神は、これこそ多伎都比古命の御依代だ。日照りのときに雨乞いをすると、必ず雨を降らせてくれるのだ」(荻原千鶴全訳注「出雲国風土記」より)

道は宍道湖北側と日本海の間に連なる山塊を東西に貫く。
いうまでもなくアップダウンの連続である。
午前十一時になり日射しの強さが増すなかを上り下りしながら走っていくと田んぼに囲まれて立つ鳥居が視界に入った。
「風土記」に出てくる「多宮の村」はこの辺りのことだろうと思いながら鳥居に向かった。
神社は集落奥部、ちょうど谷筋の再奥で「風土記」に出てくる大船山を見上げる麓に鎮座している。
見方によれば神名備山を拝する位置にあるといってもいいくらい、山容がくっきりと眺められる場所だ。

先にあげた「出雲国風土記」には、大船山山頂に石神がまつられているとある。
残念ながら時間的な余裕がなく山に登ることはかなわなかったけど、古社巡礼の際に参考にした平野芳秀著「古代出雲を歩く」には烏帽子岩と呼ばれる石神の写真が掲載されている。
また登山道には遥拝場所のように自然石が組み合わされた場所もあるそうだから、「風土記」に書かれた「往の側に小き石神百余り許在り」という石神かもしれない。
これだけでも一見の価値がありそうだ。

境内の手前に立つ鳥居をくぐり、その先の境内までは石段を上っていく。
拝殿まで240歩、まずは参拝。
平屋建ての拝殿の奥に大社造の本殿が鎮座している。
境内に掲げられた由緒によると「風土記」に書かれている通り「多宮の村」で生まれたとされる多伎都比古命を主祭神に母神である天御梶姫命ほかをまつる。

しかし由緒にはもうひとつ面白いことが書かれていた。
多伎都比古命を云々するのは古代の話で、現在の多久神社の直接の祖になった大船大明神は近江国から渡ってきた松本一族により勧請されたとされる。
近江と出雲ではかなりの距離があるが、近江にも「出雲」という地名があるように両者には歴史的につながりがあったのだと思う。
それにしてもどうしてそんな縁起が生まれたのだろう。
「近江の松本一族」とは一体だれ?

じつは我がつれあい、近江国つまり現在の滋賀県生まれで旧姓は松本である。
彼女の先祖と多久神社に関連があるかどうかは分からないが、祖先をたどっていくと出雲に到達する可能性だってあるかもしれない。
その夫である僕が多久神社を訪ねたのも何かに導かれてのことだとしたら、なんてロマンチックなんだろう。
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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◇ ◇ ◇


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2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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