名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

寒川郡

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・大蓑彦神社。

大蓑彦神社に向かい、さぬき東街道から神社のある高台に上がっていくとため池の前に出た。
神社のすぐ隣にあるから明神池というらしい。

当日は快晴、池の畔にはパラソルを立ててのんびり釣りを楽しむひとの姿も見られた。
池の表面を揺らす波もなく、鏡のように太陽の光が反射していた。

讃岐国、香川県内を走っている最中に見かけるものとして、うどん屋、お遍路さんとともにため池も多い。
神社とため池のある場所が重なるケースもあったので、ため池を目印に走って行くこともあった。
満濃池のように一見すると湖と見まがう大きな池もあれば小さな池もあり、なかには池の底に古墳など古代遺跡が沈んでいるものまで、ひとくちにため池といっても千差万別。
そもそもなぜこうもため池が多いのか。

香川県はもともと災害が少ない県であるとどこかに書かれていたのを読んだ記憶がある。
その災害には台風や大雨も含まれているようで、現在のように灌漑設備が整備される以前、雨が少ない上にたまに大雨が降ると洪水になることが多かったそうだ。
だから大量の水を必要とする米作よりも麦が多く栽培されるようになったという。
僕が訪ねた地域ではむしろ田んぼが多かったからそのことを知ったとき意外に思ったけど、うどんがこれほどまでに好まれたのは原料の供給が容易というのも一因にあるのだろう。

確かに雨は少ないかもしれない。
高松「プチ移住」の十日間のうち、雨は観音寺を訪れたときの一回だけ、それも小雨ですぐ止んだ。
甚大な被害をもたらした台風19号も予報の時点では香川県を直撃するはずだった。
「移住」先で台風に遭うことに一抹の不安を抱いていたが、結果的に進路からうまい具合にそれていた。
台風や大雨から逃れられる半面、雨が少なければ農業に支障が出る。
そのために水をためておくため池が多く作られるようになったのだという。

釣り人の姿を横目に高台にある神社へ。
鳥居をくぐり石段を上がっていく。
正面の拝殿まで78歩、まずは参拝。

境内に入ってすぐに目についたのが、寄付を出したひとの名を刻んだ石板。
四十枚以上が境内の隅に並べて立てかけられていた。
そういえば拝殿、本殿、収蔵庫などの建物が新しく感じられる。
神社の改築に尽力したひとをこうやって公表しているのだろう。
祭神や由緒を記したものは見当たらないが、「式内社調査報告」によれば社名の通り大蓑彦命を祭神としている。

境内に腰掛けてメモをとっていると境内を抜ける風が心地よく、耳を澄ますと季節外れのツクツクボウシの鳴き声が遠くから聞こえてきた。

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・多和神社。

ことでん志度線の終点でもあるさぬき市志度。
ここにも多和神社が鎮座する。
数時間前に山側の多和神社を訪れたばかりで今度は海側の神社にやって来た。

志度に到着するとどことなく町なかがにぎやかだった。
やけに警察官の姿が多く、コンビニの前を通ると法被姿の若衆が海の方に向かって歩いていった。
当日が多和神社の祭礼日であることに気づいたのはだれもいない境内に入っていったとき。
静かな境内にいると海側から歌声が聞こえてきた。

JR高徳線の線路を渡ると社名が書かれた石板が立っていた。
鳥居をくぐると細かい石段が二の鳥居まで続く。
そこで終わりと思いきや隋神門をくぐるとさらに山側へと入っていった。
鬱蒼と茂った木々を両脇に眺めながら境内へと上がっていくのだが、その道について「式内社調査報告」で多和神社を執筆された渡辺寛先生は「まことに清々しい浄路」と表現されている。
まさにその通りだ。
拝殿まで550歩。

志度の多和神社は海の近くにありながら境内自体は山の奥にひっそりと鎮座する。
といいたいところだが当日は例大祭。
境内に入りまず目についたのは神紋が染め抜かれた幕に覆われた拝殿、その手前に立てられた先に鉾や鏡が取りつけられた槍。
さらに氏子さんの名前が入った行灯が所狭しと吊るされていた。
祭礼日以外に来たとしたらここまで飾り付けられた光景を目にすることはなかっただろう。
やはり祭礼日は特別である。

式典はすでに終わっており、境内はひとっこひとりいない。

参拝を終えてFATBIKEにまたがり旧家が並ぶ街道然とした道筋に向かうと「祭礼のため通行止め」と書かれた看板が立っていた。
FATBIKEを押して進むと法被姿の男衆が休憩していた。
傍には神輿のような太鼓台が置かれていた。

先回りしてFATBIKEを止めてから街道に戻ると目の前では信じられない光景が繰り広げられていた。
二本の太い柱の中心に据えられた太鼓台。
そこに四人の子どもが乗っていて太鼓を叩いていた。
柱を肩に担いだ男衆は歌を歌いながら太鼓台が地面に落ちない程度に九十度ほど倒して地面に近づけた。
右に倒したら次は左に。
倒した太鼓台を元に戻すのもすごい。
宙に浮いていたもう一方の柱をつかんで勢いよく元に戻す。
だから反動で太鼓台の四方に吊るされた飾りの紐が大きく揺れた。
その勇壮さに思わず近づいて写真と動画を撮っていた。

高松に「プチ移住」してから讃岐国の式内社を回り続けた。
志度の多和神社は僕にとって讃岐国最後の神社である。
大トリにこんなステキな祭礼に出会えるなんて!

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・多和神社。

多和神社の二ヶ所ある論社のうち、長尾の多和神社は讃岐平野から讃岐山脈を越え阿波に向かう道沿いに鎮座する。
神社に向う途中、「へんろ道」といって四国霊場巡りのお遍路さんが行き来する道があった。

大通りから一本なかに入った、車だとすれ違いができない一台幅の狭い道。
讃岐といえば讃岐うどんが有名で通りすがりに、本当に本当にたくさんのお店を見かけた。
だけど多和神社に向かう途中には目にすることはなかった分、お遍路さんの姿を多く見かけた。
ひとりで歩いているひともいれば、集団で歩いているひとたちも。
「へんろ道」と矢印の出ている道を走っていると道沿いに堂や石仏、小祠などがまつられていた。

また遍路の途中で命を落とした物故者の名前が刻まれた碑も立っていた。
様々な思いや悩みを抱えながら遍路の途につくひとがいることをどこかの本で読んだ記憶がある。
四国の長い道のりをお大師さまと同行二人しながら心の傷を癒し新しい道を目指すひともいれば、それが叶わなず道半ばになってしまうひともいることをその碑から知った。
僕の祖父母は健在だったとき、年に数回四国の霊場巡りをしていたし御朱印を押した掛け軸を飾っていたりしたので、幼いころから何となく身近に感じてきたけど、僕の知らない四国遍路の姿がそこにあるような気がしてならなかった。

多和神社までの道は上り基調だったけどシングルスピードのFATBIKEでもゆっくりならサドルに腰掛けてペダルを漕ぐことができた。
道路沿いに鎮座する境内はこじんまりとしている。
狛犬を載せた柱に挟まれた石段を上がるとすぐに鳥居があり、その鳥居をくぐると正面の拝殿まで十五歩。
まずは参拝。

小さな神社とはいえ入口近くには鳥居とは比べものにならないくらい大きなスギとイチョウの木が立っている。
イチョウの胴回りは大人が両手を伸ばして三人抱えくらい。
十月半ばであるがまだまだ暑い日があるせいか黄葉しておらず、青々としていた。

境内でメモをしていると神社近くの鴨部川のせせらぎに混じってハンターが猟銃を撃つ発砲音が聞こえた。

多和神社には論社としてもう一社、志度にも鎮座する。
志度は海に近く当社は山に近いから、存在としてはまったく対照的である。
古くは「大田尾大明神」と呼ばれた当社は弘法大師及び藤原左太夫政富が創始したと由緒に書かれていた。

道路沿いには「延喜式内社撰定一千年明治四十年記念」と書かれた碑が傾きかけながらも立っていた。
「式内社調査報告」によれば、近世までは当社が式内多和神社とされていたが、明治初年には志度説が有力となったため、「どちらを是とするか、かなりはげしい論争が生じた」という。
その明治の晩年、世には神社合祀令の嵐が吹き荒れた時期に記念碑まで立てたものの、ときの内務省発行「特撰神明牒」(大正十四年)では志度説が公的に正とされた。

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・神前神社。

讃岐路を走っていて気づくこと、それはうどん屋の多さである。
事前に耳にしていて知識としてうどん屋が多いことは知っていた。
でも実際にFATBIKEで走っていると本当に多い。

町なかだけでなく町を抜け明らかに田舎的な場所にも。
香川のうどん事情に疎い僕には、えっ、こんなところにあって大丈夫なの? 
首を傾げたくなるような辺鄙な場所にあったりするのだが、心配は無用なようだ。
なぜならそんなお店に限って店の前には多くの車が駐まっているし、地元香川に混じって他県ナンバーも見受けられるからである。

そこまで高いうどん熱を最初は想像できなかった。
我が故郷名古屋もきしめんが名物だけど、名古屋市内できしめん屋を探すことはそれほど容易ではなく、また立て続けにきしめん屋を目にすることはまずないと断言していいのではないか。
うどんからきしめんに話題が移ったところで本題に入ろう。

神前神社の論社である男山神社。
ちょうど昼時に訪れたのだが、神社の隣のうどん屋の駐車場には車があふれていた。
帰りに寄ろうと思ったけど参拝後、車のあふれ具合を見て断念。
余程の人気店なのだろう。

男山神社は神前神社と目される三社の論社のなかでは一番大きい印象だった。
「式内社調査報告」をもとに敷地を比較すると、神前神社223坪、春日神社1,644坪、男山神社5,968坪と前記二社を圧倒している。

社名が刻まれた自然石の前で記念撮影して、鳥居をくぐり境内に向かう。
参道を歩くと両脇には寄付者の芳名が書かれた常夜灯が立ち並び境内へと導いているが、その数も三社のうちで群を抜いている。
二の鳥居と隋神門、そして注連柱をくぐり抜けると正面には破風が前にせり出した瓦屋根の拝殿が威風堂々とした姿で参拝者を迎えていた。

入口の鳥居から拝殿まで135歩、まずは参拝。
裏手に回り流造の本殿を拝み再び拝殿前に戻ろうとすると、一本の木が目についた。
注連縄が巻かれた木は立ち枯れしているように見えるが、当社の神木とのことだ。

延喜七年四月二十八日、創祀のとき、京都男山の地から一夜にして舞いおりたとも、宝善寺住職が中国の唐から白檀樹の苗を持ち帰ったとも言い伝えられている、と説明に書かれている。
樹種は分からないということだが、この神木が当社の社名と結びつく物語を持つことは明らかなようだ。
「延喜式」の編纂と同じ時期に神木となったその木、年月を表面は乾燥して無数の皺が刻まれていた。

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・神前神社。

香川で古社巡礼を始めた当日、神前神社の論社である三社を巡った。
そのうちの一社である春日神社。

田んぼと民家を横目に走り途中、橋を渡ってしばらく行くと突き当たりに「春日温泉」という温泉施設があるが、神社はそのすぐ隣に鎮座する。

FATBIKEをとめて境内に入った。
鳥居をくぐって石段を上がると、「春日神社御宝前」と染め抜かれた紺色の幟が立っていた。
最近、祭礼があったような雰囲気だ。
拝殿まで90歩、まずは参拝。
広前はきれいに掃除されていてすっきりとしていた。

FATBIKEをとめた鳥居の前に「10社ウオーク」と書かれた看板が立っており、その一番目が春日神社のようだ。
境内には「10社ウオーク」の立ち寄り場所のひとつとして春日神社の説明が書かれていた。

「鎌倉時代、神前庄が奈良・平安時代に権勢を誇った藤原氏の氏寺、興福寺領であったため藤原氏の氏神をまつった奈良県春日大社の神霊を勧請したと考えられています」

建物は平成二十五年に改築されており、本殿は拝殿と一体化した覆いに覆われていて外からは見られない構造になっていた。

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・神前神社。

JR高徳線神前駅周辺に神前神社の論社といわれる神社が三社存在する。
神前神社と春日神社、男山神社の三社。
なかでもゆいいつ式内社と同名なのが神前神社である。

神社の場所は神前駅北側の学校近く。
平野に鎮座する神社で南側にある鳥居をくぐり正面の拝殿まで45歩、まずは参拝。

左右の注連柱には「式内二十四社」「神前大明神」と刻まれており、拝殿の軒には「奉献式内讃岐国二十四神社名額」と題して二十四の式内社の一覧が掲載されている。
神前神社と同じく寒川郡の志多張神社を筆頭に、布勢神社、神前神社、多和神社、大蓑彦神社と続く。

お参りしてから境内を歩いてみると、拝殿に向かって左側に興味深い石像がまつられていた。
「神前神社の石仏」といわれるその石像は二体で、下半身はコンクリート台座に埋められていて、現在は上半身のみが台座から露出している。
傍らに立てられた説明によれば神像とされ、顔面の鼻のあたりが膨らんでいることから当社祭神の猿田彦尊ではないかといわれている。
その説を補うように説明で引用している「旧神崎村八幡宮并末社由来張」には「具名登二社」と記され、近所では「おふなとさん」と呼ばれているそうだ。
「具名登」は「久那土」=「岐」、つまり道祖神と考えられる。
祭神の猿田彦尊も道祖神と関連があることから神像の正体とされるのだろう。

以前、各地に道祖神を訪ねたことがあったけど、道祖神自体は信州や甲州といった日本列島の東側に存するものと思いきや、四国にも同じような神格を持つ石像が存在するので驚いた。
石像以外にも本殿の周りには小祠がまつられている。
本殿向かって右側の小祠の内部にはお札はなく、開いた扉からなかをのぞくと丸石が収められていた。
また入口の鳥居をくぐってすぐ左手にも同じように丸石が収められ注連縄が張られた石祠が見られた。

境内自体はそれほど広くはない。
僕が境内にいると置きっぱなしになっていたプロパンガスを業者らしきひとが引き取りにきた。
数日前に祭礼があったようだ。

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・布勢神社。

式内社であるか否か。

神社の格に関わるせいか、讃岐国の神社を回っているとそのことの重要さを強く感じる。
神社によっては拝殿の軒下に讃岐国二十四社の神社名を列挙した扁額が吊るされているのを見かけた。
たとえ論社があったとしても筆頭に自社のみを記している。

讃岐国の式内社は二十四社だが、「式内社調査報告」では論社についても言及しているので、実際に回るのは二十四社で終わらない。
延喜式が編纂されて千年以上たっているのだから、そのときは普通に存在していてもその後の事情(例えば災害や戦乱など)によっては神社自体が消滅することだってあっただろう。
式内社といわれる神社から勧請したことで、元の神社がなくなったあとにその神社がオリジナルと間違われるケースだって考えられる。
とにかく千年という時間はとてつもなく長いから、その間に神社に何が起こっているかは、分かっているよりも分からないことの方が多いんじゃないかと思う。
だから少しでも式内社と関係があれば「式内」を名乗ってもよいような状況があったのだろうと想像する。

僕が訪ねた讃岐国の神社の一部にはどうにかして自社を式内社に、という熱い思いを感じた。

布勢神社の論社である造田八幡宮は広い境内を持つ神社だ。
当社が鎮座するのは山というか丘の頂に近い場所。

入口近くに立てられた「延喜式内布勢之宮造田八幡宮」には由緒が記されていた。
もともと「和多須美命」を奉斎、造田大明神布勢之宮と呼ばれていたが、光孝天皇仁和二年、京都の岩清水八幡宮より神霊を勧請して以来、相殿に八幡大神をまつるようになった。
境内にはためく幟には「八幡大神」と書かれている。

入口の鳥居をくぐり石段を上がる。
途中、石段横のクスノキの根力で段がせり上がった場所があった。
巨木だけに根の力も相当強いようだ。
さらに石段を上がって拝殿までは175歩。

参拝後、境内を歩いてみると、向かって左手には円形筒状の井戸状の上に「鳴動釜神事斎場」と書かれた場所があった。
「式内社調査報告」に掲載されている解説によると、もともとは旧社地から現社地に移す際の占いが始まりのようだ。
釜の上に乗せた甑のなかに洗米を振り撒き、釜が鳴動するときは祈願することがらを大神が納受した証で、音がないときは大神の納受がなく凶事といわれる。

また、拝殿に向かって右側に鳥居があるのでその奥はどうなっているか気になり歩いて行った。
日陰になった坂道を上っていくと、開けた広場に出た。
神社がまつられている丘の頂に当たる部分なのだろう。
さらに奥まで歩いていくと石祠と神輿などの祭具を載せる台があった。
御旅所のようだ。

【FATBIKE古社巡礼!】讃岐國寒川郡・布勢神社。

二十年前の大学時代、サイクリング部時代の春合宿。
スタート地点の高松を出発したあと徳島方面に向かったはずなのだが、いまではどこに行ったのか記憶にない。
ゆいいつ覚えているのはその後、四国山地に向かったことくらいだ。
当時のサイクリング部には女子部員もいたものの、僕が選んだ四国を走る班は男班。

だからだろう、のっけから厳しいコース続きだった。
圧巻は二日目。
徳島県内の林道を走っているときに降り始めた雪が次第に激しくなりコース途中でビバークした。
テント泊は基本的に回生別なのだけど、このときばかりは寒さを心配して四人用テントで六人寝た。
食事はコッヘルに雪を詰めテント内で湯をわかし作った。
とんだ災難だったが、いま思うととにかく無事だったことが何よりだった。

大学の卒業式後、サークルの飲み会で後輩がそのときの春合宿が一番だった、と思い出を語ってくれて嬉しかったことを、四国を走りながら思い出した。

ここまで書くと四国ってサイクリストにとっては試練のような場所に感じるかもしれないが、式内社を求めて香川県内を走っている限り、きついと感じたのは山頂近くに鎮座する神社を訪ねたときと、国道11号線を坂出から高松に抜ける際に越えた山くらい。
日々の走りでは先回、プチ移住した島根県ほどきつくはなく、むしろ楽なくらいだった。

とはいっても小高い丘くらいは山ほどあった。
布勢神社もそんな場所に鎮座していた。

鳥居と石注連柱をくぐり、正面の拝殿まで45歩、まずは参拝。
境内全体を見渡しても古社然とした古さを感じない。
境内に建てられた「布勢神社改修事業竣功記念碑」によれば平成十五年に神社の建物は改築された。
そのとき寄付を出した氏子さんたちの名前が石版に刻まれよく見えるように境内のふちに立てかけられている。
これも香川県内の神社ではどこでも見られたもので、讃岐独特のものかもしれない。
祭神は孝元天皇の御子にして四道将軍である大彦命。
神社創建は天平元年といわれるから、歴史だけみれば相当な古社である。
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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