名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

嶋根郡

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・美保神社。

190510美保神社1

雲ひとつない真っ青な空の下には日本海の大海原が広がっていた。
遮るものがない目の前の風景。

島根半島の先端に位置する美保関灯台から日本海を眺めていたら、通路にカンバスを立て絵筆を握った絵描きのおじさんに声をかけられ少し立ち話をした。

「自転車で来たの? どっから?」
「名古屋です。でもいま松江に住んでるんです」

てっきり地元のひとかと思いきや絵描きのおじさんは岡山出身。
日本全国を車で旅しながら気に入った場所で絵を描いているという。
震災以降は東北に通う回数が増えたと話していた。
当日の天気のように明るく屈託のない笑顔の絵描きさん。
そんな生き方もあるんだな、そう思い灯台をあとにした。

松江から中海と美保湾を右手に見ながら美保関にやってきた。
「松江から」と書いたけど現在は美保関町も松江市だから市内を移動したことになる。
市内といっても松江駅前の逗留先から三時間以上。
同じ松江市とはいえ端までやって来たわけだからそれなりに時間がかかるわけだ。

美保神社の前には鳥居の右手から「青石畳通り」というレトロ感漂う商店街が広がっていた。
とりあえず神社から参ろうと鳥居をくぐる。
石段を上がり拝殿までは165歩、まずは参拝といきたいところだが祈祷中のため、拝殿の外からそ様子を眺めていた。
どこかの会社のひとたちか、揃いの事務服姿で祝詞を読む神主の方向を向いてかしこまって座っている。

ご祈祷が引けたのを見計らい賽銭箱にお賽銭を入れて手を合わせた。
それにしても拝殿・本殿ともに巨大な建物だ。
来るのに難儀する島根半島の先端にどうしてこれほど大きな神社があるのか不思議である。
名神大社でないのは、古代よりも中世以降に隆盛したということなのだろうか。
大社造の本殿には向かって右に三穂津姫命、左側に事代主命をまつる。
二殿の間を「装束の間」でつないでいることから「美保造」とも呼ばれている。

神社でもらった略記には祭神として本殿に祀られた二柱を記しているが、「出雲国風土記」では嶋根郡美保の郷にこのように記載されている。

「天の下所造らしし大神命、高志の国に坐す神、意支都久辰為命の子、俾都久辰為命の子、奴奈宜波比売命に娶ひて、産ま令めし神、御穂須々美命、是の神坐す。故、美保と云ふ」

「風土記」上では美保神社にまつられているのは御穂須々美命ということになる。
名前からして後世、御穂須々美命から三穂津姫命に変わらざるをえない理由があったのかもしれない。

神社と灯台を訪れたあと、昼食をとるために五本松公園に登った。
FATBIKEを押して登ったけど、それほどきつい山ではない。
そこにぜひ訪れてみたい場所があった。
山頂に到達すると「御穂社」への行き先を記した看板が出ていた。
FATBIKEをとめて歩いて向かうと、社名の書かれた標柱が立ち鳥居奥の小さい本殿は最近建てられたような新しさが感じられた。

出雲の旅で参考にした本「古代出雲を歩く」には御穂須々美命をまつる神社として掲載されていた。
とりあえず手を合わせたが、ここに来たとて何かがあるわけではない。
でも巨大な拝本殿を持つ美保神社と同じであろう祭神をまつる神社がこう近くにあるのも不思議である。

なお、僕自身にとっても不思議なことがあった。
美保神社の鳥居前にわが故郷、名古屋ナンバーの車がとまっていたのだ。
「Youは何しに美保関へ?」と聞きたかったが、あいにく車の持ち主と会うことはなかった。

写真は島根県松江市。

190510美保神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・生馬神社。

190509生馬神社西生馬1

東生馬の生馬神社を出て西生馬に向かう。
西ノ谷という小字の通り両側に丘をのぞむ谷筋の道を北上した。
周囲に神社らしい場所は見当たらない。

「まっすぐや、すぐ分かる。ごくろうさん」

用水を掃除していたおじさんに声をかけて場所を教えてもらった。
用水沿いの道をまっすぐ進むと突き当たりに鳥居が見えてきた。
ちょうど山と里の境界といったらいいだろうか。

神社の後方には小川があり、先ほど声をかけたおじさんが掃除していた用水の上流部分に当たる。

それよりも何よりも境内で目立つのは巨岩である。
鳥居をくぐるとすぐ左手に丸っこい岩が境内にせり出している。
東京名物「ひよこ」のようでどこか可愛らしい。

圧巻は本殿を支える巨岩だ。

拝殿で手を合わせてから裏手に回るとさらに大きな岩が本殿下から本殿を支えるように突き出している。
岩の頂部には賽銭の小銭が数枚奉納されていたので僕も一枚置いて改めて手を合わせた。

その場所から下をのぞき込んでも岩の全体像をうかがい知ることはできない。
岩全体の姿を見たかったので境内裏手の川が流れるところまで降りていった。

「凄すぎる」

驚きとともにため息が出た。
本殿下から露出する岩の大きさは半端ない。
境内は岩からできているんじゃないか、そう思った。

式内生馬神社は東生馬の神社に比定されているというが、それはもうどうでもよかった。

岩を前にしてここに神社の建物がなかった時代を想像する。
出雲の先人たちは地表からゴツゴツと露出する巨岩に聖なる感覚を抱き、そこに神を感じ、いつしか崇め奉るようになった。
そして聖地となり神社へと進化していった。

どこかの本の受け売りだけど、実際岩の前に立つとそんなことを考えてしまう。
それだけの迫力で見るものを圧倒する。

ちなみに入口の鳥居から拝殿までは33歩。
拝殿本殿ともに所々新しくなっていた。
平成三十年十一月に改修されたようだ。

写真は島根県松江市。

190509生馬神社西生馬2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・生馬神社。

190509生馬神社東生馬2

小高い山が屏風のように並ぶその前には板チョコを敷きつめたように田んぼが広がっていた。
初夏を思わせるその日、トラクターが田んぼの土をかき混ぜていた。
その様子を遠目に見ながら、田んぼと田んぼの間の道をFATBIKEで走っていく。
通勤通学の時間帯にもかかわらず、ここまで来ると時間が止まっていた。
つい数十分前まで市街地で都会の光景を目にしていたけど、目の前に広がるのはのどかな風景だ。

松江市は松江城を中心とした平野部を過ぎると農村地帯に入る。
中心部から数十分の距離で町場とは違った風景に出会えること、それが松江のいいところであり貴重なところだと思う。

「式内社調査報告」によれば嶋根郡生馬神社は東生馬の神社をもって生馬神社としているようだが、お隣の西生馬にも生馬神社が存在する。
僕としては巨岩のある西生馬押しなのだけど、とにかくどちらにも行ってみなければ気が済まない。

まず先に東生馬の生馬神社へ向かった。
丘の中腹に鎮座する境内。
入口の鳥居をくぐり石段を上がる。
石段の途中に木製の鳥居と標柱が立っていて、そこには神社の由緒が掲げられていた。
随神門をくぐり拝殿まで95歩、まずは参拝。
背の高い木々に囲まれ古社の雰囲気を醸し出していた。
祭神は神魂命の御子である八尋鉾長依日子命。
境内を観察していると近隣のひとと思われる女性が境内にやって来た。
本殿で手を合わせると足早に境内を去って行った。

大社造の本殿後方には本殿を守るように椿の木が立っていた。
木製の柵に囲まれた椿の木の根元には編まれて長くなった藁が巻かれていた。
出雲の神社での定番、荒神さんの藁蛇に出会ったのはここ生馬神社が初めてである。
残念ながら顔は朽ちており、口を開いたヘビの表情までを見ることはできなかった。
その後、荒神さんの藁蛇が気になりチェックするようになったのも、ここが始まりだった。

写真は島根県松江市。

190509生馬神社東生馬4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・法吉神社。

190509法吉神社1

法吉神社を訪ねたのは五月九日の朝のこと。

松江駅近くの逗留先のマンションを出て大橋川を渡って北上。
松江城のお堀を渡って北側の塩見縄手を走る。
武家屋敷が軒を連ねる松江では鉄板の観光名所である。
小泉八雲が松江滞在時に住んだ旧居前で記念に写真を撮った。
その横を制服姿の男女が自転車に乗って走っていき、通勤客を乗せたバスも走り過ぎていった。

松江に来るひと月前から仕事を休んでいたので、自分から「通勤」という概念が抜けかけていた。
まさに神社巡りが日常になろうとしてた時期、僕にとっては特別な時間が始まろうとしていたときだったが、世間には普通の時間が普通に流れている。
当たり前のことだけどそれを松江城の堀端で思い出した。

松江城から黒田の交差点を右手に曲がり法吉神社が鎮座する法吉町まで走って行く途中、対向車線の車からもバスからも多くの視線が我がFATBIKEに注がれた気がした。
松江に到着した二日前には子どもや学生たちから驚きの声の洗礼を受けている。
この後、松江で暮らしながら、神社を巡りながら出会った多くの人々からFATBIKEについての質問を受けた。

「これ自転車なの?」
「重そうだけど、ちゃんと走るの?」
「バッテリーは?」
「値段はいくらくらいする?」

なかには自転車として認識していない方もいらっしゃったが、これもコミュニケーションと自分の知っている限りの説明を雑談を交えてお伝えするようにした。
松江から帰宅してすでに二ヶ月を経過した。
僕の巻いたFATBIKEの種がもしかしたらいまごろ松江で芽吹いてFATBIKEに乗るひとがいたりして。
そうであったら嬉しい。

法吉神社のある辺りは小高い丘が連なっており、すぐ南側に須賀神社も鎮座して神の山の雰囲気を漂わせている。
法吉神社の鳥居をくぐり石段を上がって境内へ。
拝殿まで70歩、まずは参拝。
山を削って整えられたようで、とくに向かって右側は刃物で切り落としたように切り立っている。
石段を上がりきった場所はとても眺めがよい。
東側にそびえる山までは小さい家々が豆粒のようにびっしりと隙間なく建っている。
法吉神社の旧社地はそのさらに北側の鶯谷にある。

「出雲国風土記」には嶋根郡法吉の郷についてこう説明している。

「神魂命の御子、宇武賀比売命、法吉鳥と化りて飛び渡り、此処に静まり坐しき。故、法吉という」

ここに登場する宇武賀比売命とは加賀神社祭神である枳佐加比売命とともに兄弟神に殺された大己貴命をよみがえらせた貝の神である。
宇武賀比は蛤を意味する。

その宇武賀比命、貝なのに出雲神話ではなぜか鳥となった。
降り立ったのは旧社地とされる鶯谷。
社名の元になった法吉鳥とはウグイスのことである。
法吉は「ホッキ」と読む。
そう、ウグイスの鳴き声の「ホーホケキョ」から来ているのだ。
でもなにゆえにウグイスだったのだろう。
風土記にもその辺りについては触れられていないので、唐突感がなきにしもあらずだ。

蛤とウグイス...何か共通点ってありましたっけ?
ちなみに法吉神社境内でも鳥の鳴き声は聞こえたが、ウグイスではなかった。

写真は島根県松江市。

190509法吉神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・爾佐能加志能為神社。

190514爾佐加志能為神社1

爾佐神社が鎮座する千酌からFATBIKEに乗り海岸沿いの道を西へ向かった。
海沿いの道を走るのは嶋根郡や出雲郡といった日本海沿いの地域を含む郡を回る際の楽しみである。

僕の故郷、名古屋の自宅も海はそれほど遠くない。
だけど島根の海とは、これが海か、というほどの差がある。
工場が建ち並び産業や貿易が中心の名古屋港。
濁った海は透明とは程遠い。

対する島根半島から眺める日本海は同じ海でもそもそも前提条件が違う。
青く澄んだ海、海に浮かぶ奇岩。
目を通して体内に取り込まれるその映像は脳裏に焼きつくだけでなく、蓄積した疲労を少しずつ溶かしてくれた。
休職していた僕が松江暮らしを取り戻し帰名できたのもひとえに松江や島根の風景のおかげだと思っている。

ただしかし、そんな素晴らしい景色の大半は坂を上りきった場所にあるものだ。
特に島根半島ではそうだった。
地図で確認するのが嫌になってしまうほどの上り坂。
爾佐神社から爾佐能加志能為神社までは腸のようにクネクネと曲がった道を経なくてはいけない。

何どもいうようだけど僕のFATBIKEに変速機はない。
それがこだわりだけど、島根半島に限っていえば変速機があった方がいい。
今回得た教訓のひとつである。

爾佐能加志能為神社が鎮座する野井に到着した時点で雨が降ってきた。
レインウェアが必要なくらいだ。
神社の入口にFATBIKEを立てかけて鳥居をくぐって石段を上がった。
石段の手前には巨岩が横たわっていた。
拝殿までは90歩。
参拝後、拝殿の屋根の下でしばらく雨宿りをした。

それにしても爾佐能加志能為神社とは不思議な名前である。
社名を分解すると「爾佐」「加志」「能為」の三つに分かれる。
「爾佐」は東側にある式内爾佐神社と同じ文字が使われている。
「加志」とは旧社地があったといわれる加志島で、「築嶋の続きの加志嶋に鎮座していたが、長元七年八月の大風で吹き流されたので、神體は當浦日御崎神社の合殿にしてゐる」と「式内社調査報告」は説明しているが「築島の続きの加志嶋」というのはどういうことか。

「出雲国風土記」嶋根郡の条を見ると加志島と築島(附島)は別々に掲載されている。
国土地理院の地形図を見ても築島はあるけど加志島は見当たらない。
築島も加志島も同じ島だったのではないかと思うけど、「築嶋の続きの加志嶋」というくらいだからやはり別々の島なのだろうか。

一方、神社前の案内板にはこう書かれていた。
野井の神社というのはもともと日御崎神社であり、古代当社の系譜を引く「加無利明神」が零落し、代わりに椎の木をまつっていた。
明治期に日御崎神社に加無利明神を合殿として社名を変更。
旧社地は漁業組合近くとしている。

通りすがりの僕にはどちらの説が正しいのかはっきりとは分からない。
ただ、神社自体が築島を向いていることから島に旧社地があったとしても不思議ではない。
また椎の木を神体としてまつったことについて、対岸の朝鮮半島・慶尚道には樹林を聖視する新羅が存在していたことと関係があるのではと勘繰りたくなってくる。

そもそもこの辺りの地名とは関係のなさそうな「爾佐」を冠した神社が隣接してあることも不思議である。
そもそも「爾佐」って日本語なのだろうか。

写真は島根県松江市。

190514爾佐加志能為神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・爾佐神社。

190514爾佐神社1

嶋根郡の神社を回った当日の朝は雨が降っていた。
松江に来て初めての雨。
しかしその雨は長引くことはなく、朝のうち少し地面を濡らした程度だった。

通勤通学時間を過ぎると上がったので、休みを返上して急きょ出かけることにしたのは多気神社の項で話した通りである。
松江駅近くの逗留先を出て多気、久良彌、河上の各神社をへて日本海側に出た。

目的の爾佐神社を目指し、海沿いの道を走って峠までやって来ると海が望める場所にベンチが設置された公園があった。
時間はちょうどお昼。
アルコールストーブに火をつけて味噌汁用のお湯を沸かしていたら小雨が降ってきた。
もう降らないものと思い込んでいただけに「マジで」という気持ちだったけど、峠の公園にはベンチだけでなく東屋もあったので場所を移動。
少々蒸し暑かったものの、インスタントの味噌汁に手製のおにぎりという松江暮らしを通してスタンダードになった昼食とともに小雨降る日本海の眺めを楽しんだ。

雨が上がったころを見計らって峠を下りると千酌の集落まではあっという間だった。
千酌湾に向かって開けた場所に集落が広がり、神社は湾口の中心辺りに鎮座していた。

入口の鳥居をくぐり随神門をへて正面に建つ拝殿までは30歩、まずは参拝。
境内を歩いてみるが、大社造の本殿や摂社の姿はどこの神社もだいたい似ている。
本殿向かって右手の奥には木の鳥居が立てられている場所があった。
藁蛇や幣串のようなシンボル的なものは見当たらなかったが荒神さんだろう。

「式内社調査報告」によると境内の一部には磐境の名残があり、北西の部分に首塚とも大古塚とも呼ばれる古墳があると書かれている。
古社巡礼とともにご当地の古墳巡りを楽しみにしている割にはまったく気づかなかった。

また他の神社境内で見られない珍しいものとして神馬像があった。
首にはしめ縄が巻かれており、足の付け根の筋肉がたくましい。
神馬と当社の祭神・都久豆美命には関係があり、都久豆美命は天照大神の弟神、月夜見命なのだという(「出雲国式社考」)。
神社が鎮座する地名の「チクミ」と祭神の「ツクツミ」、そして同神とされる「ツキヨミ」も言葉の響きが何となく似ている。
その月夜見命、「伊勢大神宮延暦儀式帳」に「月読命御形馬上乗男形」とある点が神祭日に馬を飾ることとつながるのだそうだ。
ちなみに「萬指出帳」(宝暦十四年)には四月三日の大例祭で「鬼門堅メ之神㕝、帯・甲冑・騎馬ヲ立テ執行」とあるように鬼門堅メ、即ち流鏑馬が行われていたことが記されている。

僕が神社を訪ねた時点での流鏑馬をやっているかどうかは分からなかったけど、「式内社調査報告」が執筆された当時には行われていた、と原宏氏は報告している。

写真は島根県松江市。

190514爾佐神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・加賀神社

190514加賀神社1

松江の風光明媚な観光スポットである「加賀の潜戸」
潜戸鼻と呼ばれる岬の先端近くの海上に旧潜戸と新潜戸という洞窟状の穴が空いている。

「出雲国風土記」にも記されていることから古代出雲の人々にも神秘的な感動を与えたことだろう。
嶋根郡の条には加賀の潜戸についてこう記されている。

「加賀の神埼。即ち窟有り。高さ一十丈許、周り五百二歩許。東と西と北に通る」
(萩原千鶴訳/加賀の神埼。ここに岩窟がある。高さ十丈[29.7メートル]、周り五百二歩[893メートル]ほど。東と西と北とに貫通している)

風土記を記述するにあたりだれかが直接出向いて調査を行ったと思われる。
加賀の潜戸に限らず「出雲国風土記」は国内の名勝なども詳細に記述している。
「出雲国風土記」の取材・編集に携わった先人たちの熱意に尊敬の念を抱かずにはおられない。

ちなみに「加賀の潜戸」は出雲国四大社のひとつ佐陀神社の祭神である佐陀大神が生まれた場所でもある。
潜戸のなかには鳥居が立っており、そこには佐陀大神の母神で神魂命の御子である枳佐加比売命がまつられている。
と、見てきたようなことばかり書いているが、実際、潜戸への観光船が出航する「マリンプラザしまね」まで行きはしたものの、潜戸遊覧船に乗ったわけではなく、パンフレットの受け売りである。

そもそもこの辺りは坂がきつい。
本当にきつい。
変速機がついていない我がFATBIKE。
最初座ってペダルを漕いでいたが斜度がきつくなると立ち漕ぎし、そのうち立ち漕ぎが無理になるとFATBIKEから降りて押すことに。
自転車、とくにスポーツサイクルといわれる部類の自転車で押し歩きをするのはスタイル的にどうよ、って感じがするが、漕げないんだから仕方ないし、選手でもないんだから楽しみ優先でいいではないかと開き直ればよいのだ。

マリンパークしまね近くの漁港から潜戸のある辺りを眺めて写真を撮ってから、向かったのは加賀神社。
神社のある加賀までは二つの長いトンネルと下り坂を抜ける。
松江市の島根支所をはじめ学校など公共施設が集中し、加賀神社も小中学校と並んで鎮座している。
メーンストリートを走っているとすぐに鳥居を見つけることができた。

しかしである。
鳥居をくぐると正面の拝殿には足場が組まれ工事用の幕ですっぽりと覆われていた。
屋根の上ではトンテンカンとやっている。
タイミング悪く改築工事の真っ最中であった。お参りはできるようだったので拝殿の前まで進み手を合わせた。
鳥居から40歩の距離。

祭神の枳佐加比売命は先述の通り佐陀大神の母神であり、また兄弟神に殺された大己貴命を妹とともに救った赤貝の神でもある。
かつて当社は「潜戸大明神」とも呼ばれていたという。
神話が語られる前から潜戸のような神秘的な自然の造形物に対する信仰があったに違いない。
それが潜戸内の神社になり、利便性から里宮的存在として当社が創建されたのだと思う。

写真は島根県松江市。

190514加賀神社説明

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・横田神社。

190510横田神社森山1

式内横田神社とされる森山の横田神社。
境内は境水道沿いにそびえる横田山の東の麓にある。
ここからは対岸にある境港の街並みが手に届くように近い。

境水道に沿った国道から海側の集落に入るとブロック塀の向こう側に鳥居を見つけた。
鳥居をくぐり石州瓦で葺かれた随神門をへて拝殿までは35歩、こぢんまりとした境内である。

「コケコッコー、コケコッコー」

手を合わせてお参りしようとしたタイミングで近所で飼われているニワトリが鳴き始めた。
まるで神社に現れた僕を不審者と思い警戒して集落中に知らせているかのようでもある。
拝殿の後方には大社造の本殿とともに向かって左側に摂社が二社、その横には卵形の自然石と石祠がまつられていた。
さらに本殿の右手にはしめ縄を巻かれたクスノキが立っており、その奥には山のなかに入っていくような入口があった。
何があるのかとても気になったが、さすがにひとりで入って行くのはためらわれた。

境内を歩いてから拝殿手前の石段に腰掛けてメモをしていたところ、一台の軽トラックが神社の駐車場に止まり初老の男性が出てきたので挨拶した。
あとから考えてみたら、境内の様子を見に来たのではないかと思う。
やはりニワトリが知らせたのかもしれない。

それはともかく男性は当社の氏子総代だと紹介されたので、神社についていろいろと話をうかがい、気になっていた山への入口の奥には何があるのかを尋ねた。

「行ってみますか?」

総代さんに誘われ木々の茂みに空いた入口を入って行くと斜面を上がる小道があり、周りは竹が密集していた。
竹と竹の間に両手の平でつかめてしまうほどの胴回りの太くない木に藁の束が巻きついていた。
リアリティのある造形ではないものの総代さんが顔を持ち上げると突き出した口の部分からそれが荒神さんの藁蛇であることがよく分かった。
荒神さんの祭礼は毎年十二月に行われるというが、急斜面を上がることは地区のお年寄りにとって難儀だそうだ。

境内に降りてからも総代さんは神社について話を聞かせてくださった。
総代さんの話と「式内社調査報告」の内容を合わせると、横田山がかつて尼子氏の家臣の山城だった当時、当社は山の西側に鎮座していた。
それが永禄六年に毛利方に降り落城すると当社も移転、古関の美保神社に合祀された。
その後、天正十九年、横田山の東である現位置に横田神社の社殿を設け美保神社をこちらに合祭した。
そのため「美保横田神社」とも称していたという。

当社は山頂に鎮座することなく山を起点に西から東へと移った、式内社としては珍しい事例ではないだろうか。
なお山頂には現在、金毘羅宮がまつられている。

写真は島根県松江市。

190510横田神社森山4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・門江神社。

190606門江神社旧社地2

出雲国の式内社訪問記をほぼ毎日書いているが、さすがにひと月を神社巡りに明け暮れていたのでネタに尽きることはない。

ところで書く順番について、これまでの国(伊勢国とか尾張国とかの国)であれば自分が訪ねた順に書いていたけど、出雲国に関しては訪問できる神社についてあらかた回ってから書き始めたので、「延喜式」に掲載されている郡と神社の順に書くことが可能だった。

門江神社は松江を去る前日に訪ねた神社の跡地、つまり旧社地である。
「式内社調査報告」には「八束郡誌」を引いて「東川津門戸谷 明治四十年合祀」と嵩山の布自伎美神社へ合祀されたと説明している。
明治四十年という年代からすれば愚策「神社合祀令」によるものであることは間違いなさそうだ。
「式内社調査報告」では門江神社にページを割いているものの、扱いとしてはあくまでも旧社地。
だから社がないのに行く意味があるのだろうかという葛藤があった。

松江での生活を終える前日の六月六日は天候にも恵まれ、サイクリング日和だった。
最後の最後まで旧社地であるという理由から門江神社をどうしようか迷っていた。
逗留先から近ければ行くのだが、これが案外遠い。
再度、嵩山に登る必要はないけど神社があった場所は山の麓である。
面倒くさいという気持ちがなかったわけではない。
結局、散々考えた末、行くことにした。
行かなきゃ後悔するかもしれないし、後悔しても松江を去ったあとではなかなか来られない場所だから。

松江駅近くの逗留先を北上し、島根大学から国道431号線を東へ。
松江刑務所の前をさらに進み、ひと月前に登った嵩山の麓を北に向かった。
スマホでグーグルマップを立ち上げると現在地は門江神社の跡地があるとされる上東川津町を指している。
神社の所在地である「東川津門戸谷」(「八束郡誌」)へは「西宗寺のところから東北にややあと返るやうに進めば門戸谷に至る」と「式内社調査報告」調査者の原宏氏は述べている。

現場に着き目印の西宗寺は見つかったが、そこからどう行けばいいのか、分かりにくい説明を頭のなかで反芻しながら現地の風景と重ね合わせようとするも、土地勘がないせいかお手上げ状態である。
こうなったらだれかに尋ねる方が手取り早いが、周囲にひとの気配がない。
洗濯物が干してある農家らしいお宅で声をかけてみるが、反応はなかった。
ここまで来ておきながら引き下がるわけにはいかない。
どうしようもなければ諦めるしかないか...

FATBIKEを置いて辺りを見渡すと、離れた場所から水が流れる音がした。
屋外の水道前にひとの姿があったので、すかさず神社の場所について尋ねた。
バイザーの上からタオルを巻いた完全装備のおばさんが自宅で飼っている牛に水を与えようとしていた。

「ここの近くに神社があったことは聞いているけど、その神社も嵩山の上に合祀したって。私ではよく分からないから」

そっけない返事だった。
でも諦めるわけにいかないから、スマホに保存しておいた「式内者調査報告」の写真を見せてなんとか場所を聞き出そうとした。

「隣の家が『宮ノ前』だからこっちかもしれないねぇ」

熱意が伝わったのか、おばさんは作業の手を休めて、自分の家の畑だからいいよ、と畑のなかを歩いて共用の通路へ案内してくれた。

「ここです、ここです」

「旧社地を望む」と写真説明にある旧社地へ至る通路が目の前にあったので興奮気味に伝えた。
畑の横を通るその通路はだれでも通っていい道というから、参道の名残なのだろう。

おばさんの案内でそのまま直進、ヤブのなかを入って行った。
草がぼうぼうと茂り竹も伸び放題だが、道の形跡らしきものはある。
さらに上がると平らな場所に出た。
苔と草に覆われた石垣がかつての境内を彷彿とさせる。
背の高い竹に覆われていて日差しが届かないこの場所には椎茸の原木がいくつか置かれているだけで神社の匂いはなく、あくまで旧社地でしかなかった。

「私、ここに来て四十年近くになるけど、この場所に来るのは初めて」

そういっておばさんは笑っていた。

改めて「式内社調査報告」を読み返すと、門江神社として考えられたのは当地にあった「国石大明神」、祭神は不詳だが国常立命する説もある。
社地は全体で三段になっており、上段の平地に本殿、御拝などがあり、中段に拝殿、下段は平地になっていた(「嶋根郡上川津村式内門江神社境内ノ図」)。

数枚写真を撮り、来た道を引き返すと作業に戻っていたおばさんにお礼をいった。
やっぱり来てよかった。

写真は島根県松江市。

190606門江神社旧社地3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・長見神社。

190510長見神社3

松江駅近くの逗留先を出発して一時間ほどすると道の駅が見えてきた。
信号以外ほぼノンストップで走って来たから、トイレとコーヒーブレイクを兼ねて休憩することにした。

併設のコンビニでコーヒーとパンを買って道路を渡り海が見えるベンチに向かった。
朝日が中海の海面に降り注ぎ、キラキラと反射している。
弓浜半島が美保関に向かって伸びているのもよく分かる。
当日の目的地は島根半島東端の美保関。
ここから目にする限りかなりの距離なので、海を眺めながら気合いを入れた。

再びサドルにまたがり坂を下ること十分ほどで長見神社が鎮座する長海地区に到着。
境内から少し離れた場所に立つ鳥居近くにFATBIKEを止めた。

鳥居の手前に立てられた案内板によると当地は武蔵坊弁慶生誕の地といわれる。
弁慶が病床の母弁吉から語られた母の生い立ち、自らの出生から幼少期・青年期までのことを書いた「弁慶願文」が社宝として奉納されているという。

立ち寄った道の駅から神社までの間には弁慶島という小島があったし、少し離れるが安来の出雲路幸神社(佐為神社論社)にも弁慶の腰掛け石があった。
弁慶の生誕については紀州とする説もあるようだが、出雲の地を走っていると何かにつけて「弁慶ゆかりの〜」というものを目にする機会が多く、僕のなかでは「弁慶=出雲人」というイメージが膨らんでいった。

入口に立つ鳥居から石段を上がり、屋根に葺かれた石州瓦が朝日にテカテカと反射する拝殿まで93歩。
また石段を上がりきったところには境内で一番背が高いスギの木が出迎えてくれた。
まずは参拝。
由緒の掲示はないが、先ほどの案内には天津彦火火瓊瓊杵命と木花咲耶姫が祭神と記されていた。

奥に回ると大社造の本殿と摂社が鎮座し、さらに数歩先には木の幹に藁が巻かれ、地面には幣串と小さな鳥居が立てられていた。
荒神さんの木のようだが、巻かれた藁蛇はすでに蛇の形状を失っていた。

境内を回り拝殿の階段に腰掛けるとここからも中海が眺められた。
弁慶も故郷の風景として思い出すことがあったかもしれない。

中海に浮かぶ大根島と江島、それと鳥取県の弓浜半島は1968年の干拓事業で陸続きになったと「島根県の歴史散歩」に書かれている。
そういえば出勤の時間帯ということもあってか、反対車線には鳥取ナンバーの車が多く見られるようになった。

写真は島根県松江市。

190510長見神社1
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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