名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

意宇郡

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・久米神社。

190530久米神社(里宮)1

伊邪那美命が眠るといわれる比婆山山頂。

安来駅から一時間をかけて走ってきて、久米神社の奥宮が山の山頂と知って「まじか」と少々落胆した。
実際の標高は320mと高くないが登山には変わりない。
どうしても次の訪問先があるわが「FATBIKE古社巡礼!」
一日の予定のなかに低山であっても登山があるとなると気持ち的に少々重荷になる。
でもそこに神社がある以上、登らないわけにはいかない。

里宮に到着し、鳥居をくぐって拝殿まで47歩。
拝殿後方に回り込むと、本殿の建物は出雲地方には珍しい神明造である。
参拝してから奥宮まで登ろうか逡巡していると鳥居の手前に蛇の脱皮の抜け殻が落ちていた。
俗信では蛇の抜け殻を財布のなかに入れていくと金運が上がるといわれてる。
あいにく抜け殻は蛇の体そのままの状態で落ちていたからそれを刻んで財布に入れる勇気はなかったけど、金運上昇アイテムを目にしたようでとてもラッキーな気分になった。
だからその勢いで登ってしまおう。
山頂に奥宮がある以上、登るのがわが古社巡礼の作法でもあるから。

拝殿に向かって左側に登山道の入口がある。
蛇の抜け殻はいいけど中身である本物は出ないでね、と心のなかで祈りながら登り始めた。
案内によれば山頂まで1050mの距離。

午前8時半に登り始め、山頂に到着したのは手元の時計で8時55分だった。
木々の間の道を通り抜け、山頂近くの大鳥居から奥宮の拝殿まで280歩。
まずは参拝。
山頂にある説明によると奥宮が鎮座する比婆山は出雲国と伯耆国の境に当たるようで奥宮の扁額には「雲伯堺」の文字が見えた。
本殿の後方には草に覆われた盛り土があり、説明によれば伊邪那美命の陵墓とある。
近くで観察すると円墳のようだ。

伊邪那美命は死後、黄泉の国へ入った。
夫である伊邪那岐命は妻に会おうと黄泉比良坂を越え黄泉の国に入ったがすでに妻は、死後の世界の食べ物を口にしたため戻ることができない。
古事記にはそう書かれていたことを記憶している。

黄泉比良坂といわれる場所が揖夜神社の西側にあり、古墳がある当社はそのさらに東側にあるので、位置関係からすれば黄泉の国は松江の東側に存在したということになる。
神話のなかの存在である神が墓に葬られるというのはあまりにも人間的な話である気もするが。

「古事記編纂1300年 参拝記念」と書かれたスタンプをノートに押して再び下山した。

写真は島根県安来市。

190530久米神社(奥ノ宮)2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・田面神社。

190530田面神社1

お昼に近づくにつれ降り注ぐ日差しが一段と強くなった。
FATBIKEに乗って走っていると日光をもろに浴びる。
本当は曇りくらいがよいのだけど、晴れているからこそのサイクリングである。

松江での暮らしを始めてからというもの、雨の日は通算四日ほどだった。
生活の大部分を自転車での古社巡礼が占めるので晴天はありがたい。
でも一方で農家さんにとっては田植えの時期だけに、恵みの雨が降らないわけだから心穏やかではなかったことだろう。

FATBIKEをとめてスマホの画面を確認すると、神社の場所は近くにあるはずなのにそれらしき場所が見当たらない。
式内社巡りの旅ではよくあることだけど、実際にそんな場面に出くわすとやっかいだが、こういう場合はあたふたする前に地元のひとに尋ねるのが一番だ。

畑仕事をしているおばさんがいたので目的地である田面神社の場所について尋ねた。

「あぁ、タノモーさんね。どう説明したらいいかな」

仕事の手を休めて、手袋を外しながら歩み寄って僕のスマホを手に取り、「そうだね、どうやって行ったらいいかな」と場所について思い出しながら「細い道」「公会堂」「ごみ捨て場」などをキーワードに行き方を教えてくれた。
僕が自転車で神社を巡っていると話すと、田面神社では三月に五穀祭が、つい最近はマムシ除けの砂をもらう神事があったばかりだという。

マムシ除けの砂はもらってきて田んぼや畑に撒く。
いまではほとんど見ることがなくなったけど、昔は田植えの時期になるとマムシが結構出たそうだ。
農機がない時代には手植えをしていたのでマムシに出くわすとかまれることがあった。
まじないのような神事は手植え時代の名残といえる。

話好きなおばさんとは、神社の場所から最近の神事の話になり、それから天候の話、数日前に行われたホーランエンヤの話題へと移っていった。
お稽古事の関係で前回2009年の祭礼を見に行かれたそうだ。

「ひとが多いけんね、今年は見に行かんかったんよ」

自分の母親と同世代のおばさんは話のなかに時折出雲弁が混じるけど、イントネーションは不思議と関西弁よりも名古屋弁に近いから、違和感を感じず話をしていた。

その後、教えてもらったルート通り、ひと山越え公会堂を右折したところまではよかったけど、その先が不安だったので通りかかりのひとに神社の場所を尋ねた。
すると「バイクは入れませんよ」と注意された。
「これ自転車です」と反論するより早く神社に行きたかったので、「ありがとうございます」とお礼をいって神社に向かった。

確かに神社の場所は分かりにくい。
民家の奥の裏山といった雰囲気だ。
標柱が立っていたのでかろうじて参道であることが分かった。
石段を上がり吸い込まれるように森のなかへ。
小さな本殿まで50歩、まずは参拝。

「式内社調査報告」によれば神社が鎮座する丘陵には「大小の古墳が多く、出土品も多々出ている」との記述があるが、現場では古墳の有無に関する説明はなかった。
でも静かでひっそりとしているから古代人が眠るにはちょうどよい場所である。

写真は島根県安来市。

190530田面神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・勝日高守神社。

190518勝日高守神社2

グーグルマップに印をしておいた勝日高守神社。
富田城址がある月山の麓を道なりにやって来た。
スマホの画面を見ると神社の場所は限りなく近いはずなのに、目の前の風景には神社らしき場所は見当たらない。
式内社なんだから看板くらい出しておいてもらえるとありがたいのだけど、と勝ってなことばかり考える。
ちなみに近くにある看板が示しているのは尼子晴久公の墓。
墓前に進み手を合わせ、勝日高守神社に行けるようお願いをした。

松江に「プチ移住」する際、神社巡りの手助けにするため「式内社調査報告」と「島根県の歴史散歩」という二冊の本を持ってきた。
この二冊の本には勝日高守神社が富田城趾のある月山の頂上にあるとしっかりと書かれている。
にもかかわらず、当日巡る神社とそのルートを決めただけで、訪問予定の神社について「予習」はしていなかった。
まったくもってお恥ずかしい。

尼子晴久公のお墓を訪ねたあと、FATBIKEを駐輪して「月山登山道」と書かれた道を行くことにした。
この時点では神社が山頂にあるとは知らず、もしかしたら途中に鎮座するかもしれないというかすかな期待を胸に、一か八かの気持ちで登り始めた。

乾いた落ち葉が降り積もった道は踏みしめると滑りやすい。
杖もなく両手にはつかまるための木もないので、ゆっくりバランスをとりながら歩いていくしかない。
曲がり角に差し掛かかったとき、明らかに山の木ではない人工的に植えられたような木が立ち並んでいた。
神木といってもよさそうで、手前には柵というより玉垣が作られていた。
祭壇だろか? 
この先に神社があることを示す目印か?
不思議に思っていると黒っぽいヤマカガシが道をさっと横切り逃げていった。

グーグルマップの位置情報は現在地がだんだん神社の場所に近づいている。
とうとう鳥居を見つけた。
先の方向が明るくなったと思ったら月山の頂上にたどり着いた。
と同時に勝日高守神社にも到着した。

境内入口、石段のある場所は狛犬の倒壊の恐れがあるため入れないようにロープでふさがれていた。
そのため建物の横の小道を通り拝殿へ、ここまで来れたことを感謝しながら手を合わせた。
富田城が偉容を誇っていた当時、城内の守り神としてまつられていたという。

境内を出て富田城があったとされる場所を回ってみた。
遮るモノがない山頂、風が強く吹いている。
自分の準備不足から急に登ることになった月山だが、いざ頂上に立ってみると安来の町並みが見渡せて気分がよい。
先を急ぐので城趾をひと回りして来た道を下った。
そして再度、尼子晴久公の墓を参り、無事に登れたこと、神社にたどり着いたことを感謝したのだった。

写真は島根県安来市。

190518勝日高守神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・勝日神社。

190518勝日神社富田八幡宮1

勝日神社が鎮座する富田八幡宮にやって来た。
とても広い境内、と月並みな言葉しか思い浮かばない。

社名が刻まれた標柱が立ち道路に面した一の鳥居から、石段を上がり、長い長い参道を歩いて随神門をくぐる。
その先にある桧皮葺の建物に息を飲んだ。
いただいた略記によると、入母屋造の拝殿、流造の本殿、切破風の中殿の建物はすべて有形文化財として指定されている。
大社造が多いこの地方の神社建築のなかで流造の社殿は珍しい。

建物自体は1790年の火災後、広瀬藩の命により建てられたものだというが、創建自体は560年というから神社の境内を歩くと古社とはなんぞや、という問いに対する答えを教えられるような気がした。
拝殿までは460歩、まずは参拝。

古社感あふれる境内だが随神門のなかにとんでもない警告文が張り出されていた。

「熊情報あり 警戒して下さい 社務所」

略記に「社有風致保安林共三万坪、参道は苔むした石畳が両脇の杉、欅の大樹に覆われ、神秘的な森厳さが保たれており」とあるように境内の森は深い。
熊が生息していても決しておかしくない自然環境であるが、警告文を読むと恐ろしくなってくる。
参拝に先立ち手水舍に立ち寄ると神社の関係者の方が掃除してみえたので声をかけた。

「私も実際見たわけではないのですが、五月の頭ころに出たという情報があったので張り出しておいたんですよ。イノシシは毎夜暴れてますがね」

勝日神社は本拝殿のある境内中心から向かって右手奥に鎮座する。
鎮座地のこの場所は勝日山と呼ばれていることからすると元々はここの主人だったようだ。
「古くは月山頂上の勝日高守神社の里宮として山腹に鎮座」と略記に書かれている通り、富田城があった月山は元々勝日山と呼ばれていたが、高守神社の里宮として当社を遷座した時点で勝日山という名も一緒に里へ降りたそうだ。

幸い、境内にいる間、クマの姿に遭遇することはなかった。
僕が松江で暮らしていた間だけでも、浜田市内でクマが目撃されただけでなく、ワナにかかったと報道されていた。
山にはクマのエサになるものがないので人里近くに降りてきているのかもしれない。
不幸な出会いがないことを祈るばかりだ。

写真は島根県安来市。

190518勝日神社富田八幡宮3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・由貴神社

190511由貴神社2

大橋川沿いの松江市馬潟町に鎮座する由貴神社を訪ねたのはホーランエンヤの渡御祭の一週間前。
町内には「馬潟櫂伝馬」と書かれた幟が町内の至るところに立てられていた。
平日だったせいか祭を一週間後に控える緊迫感は感じられず、大橋川の流れのようにのんびりとした空気が流れていた。

松江での「プチ移住」生活を初めてまだ数日しかたっていないころ。
新聞やテレビの報道、そして町中に張られたポスターなどでホーランエンヤについて目や耳にする機会が日に日に増えていった。

幟に書かれているように馬潟町はホーランエンヤで櫂伝馬船を出すことができる「五大地」のひとつ。
神輿船が暴風雨で座礁しかけたのを馬潟の漁師が真っ先に出て助けたことから「いのいち馬潟」と呼ばれるようになった。
櫂伝馬船の船体には「い一まかた」と書かれている。

由貴神社の入り口にFATBIKEをとめて鳥居をくぐり境内へ。
神社を守る狛犬の顔がコミカルで可愛らしい。
すぐ正面の拝殿まで15歩、まずは参拝。

拝殿に向かって左側にはツバキの木だろうか、根元に藁蛇が巻かれていて、胴体部分には串幣が差し込まれていた。
藁蛇は顔、歯、舌まで細かく作られておりクオリティーの高さがうかがえる。
やはりホーランエンヤの五大地のひとつだけあって、伝統を守ることに対しひとかたならぬものがあるようだ。

なおホーランエンヤつながりでいえば、城山稲荷神社の御神体が渡御する阿太加夜神社境内にまつられていた藁蛇も立派だった。
幹回りが太くそれ自体が恐竜の足のようなタブノキの根元近くを胴が巻き、鳥居状に立てられた竹を前に大きく口を開いている。
またタブノキの根元にはおびただしい数の串幣がさされている。

木も蛇もともにただならぬ雰囲気を醸し出している。
僕が出雲国で目にした多くの藁蛇のうち、自分が食べられそうになるくらいの恐怖感を感じたのはあとにも先にも阿太加夜神社の藁蛇だった。

写真は島根県松江市。

190511由貴神社4

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・市原神社。

190511市原神社1

式内社という神社があるということを僕は四十歳を過ぎるまで知らなかった。
書店で偶然手にした岡谷公二氏の著作「神社の起源と古代朝鮮」という本をきっかけに、「延喜式」に掲載されている式内社と呼ばれる古社を巡ろうと決意した。

式内社が古社であることはいうまでもないが、延喜式編纂後千年以上たっている今日、式内社と考えられるすべての神社に「古社感」を求めるのは難しい。
千年もたっていれば変わっていることも多いはず。

式内社としてまつられる神社には歴史を感じさせる古社が多い一方、これが式内社なのかと思わせるような古社の雰囲気が感じられない神社もあるのが現実だ。
長い年月をへて大きくなる神社があるのも確かだが、歴史の流れのなかで忘れ去られる神社もあれば廃絶してしまう神社があったとしても不思議ではない。
だからこそ市原神社はよくぞ式内社の伝統を残してくれたと感謝したくなる神社である。
残念なのは鎮座する場所がとても分かりにくく、スマホのGoogleマップを使っていなければ到達できた自信はないのだ。

揖夜神社の境外末社である市原神社。
集落内を走りながら神社がありそうな場所を探すがなかなか見つからない。
道路沿いをキョロキョロしながらぺダルを漕ぐ。
視界のはるか先には小高い丘が連なってはいるけど、神社らしい鬱蒼とした雰囲気の森はない。
いつしかスマホに落とし込んだ場所を過ぎてしまっていた。

上がった道を下り始めスマホを確認。
画面に示された現在地を見るとかなり近い。
そして現在地と神社の場所が重なったとき、道路端の奥に小さな道を見つけた。

FATBIKEを立てかけて小道をたどって行くと、その先に小さな社が鎮座していた。
扁額に「式内市原神社」とある。
まずは参拝。
賽銭箱には「一の原組一同」と書かれていた。
「一の原」=「市原」なのだろう。

広い境内に大きく古い社殿があるというわけではない。
そこにあるのは式内社という古社の記憶を形に表した神社である。

千年以上の歴史を持つといわれる神社とはいっても、必ずしも大きな神社とは限らない。

写真は島根県松江市。

190511市原神社2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・意多伎神社、同社坐御譯神社。

190518意多伎神社3

「出雲国風土記」をひもとくと、現在の意多伎神社に鎮座する神社が三社掲載されている。
神祇官社である「意陀支(おだき)の社」二社と非神祇官社である「食師(みけし)の社」の合計三社。
前者二社は意多伎神社、同社坐御譯神社に相当し、後者は倉稲魂命で、すべて意多伎神社に合祀されている。

旅のお供である萩原千鶴訳注「出雲国風土記」によれば、風土記掲載の神社は神祇官の神社台帳に登載の神社と登載外の神社に分けて列記されている。
前者はのちに式内社となるので古社巡礼の対象であるが、後者「登載外の神社」に関してはそこまで回りきろうとするとひと月の「プチ移住」期間には終えられないから、はなから相手にすることはなかった。

意多伎神社は小高い丘全体が境内になっている。
先に訪ねた式内野城神社といわれる能義神社もそうだった。
丘へ上がる登り口に立つ鳥居は獲物を体内に取り込もうと待ち伏せする怪物の口のようだ。
その奥に続く石段を上がっていくと参道というよりも登山道のような小道が奥に続いていた。
山上の古社だけあって周囲には胴回りが太く樹高の高い木々が立ち並んでいる。

しばらく歩くと本殿の裏側に出た。
いちおう拝殿まで230歩。
随神門の外側に出ると左手に石段、その先には鳥居と狛犬があったから、こちらが正門のようだ。
先ほどの鳥居は裏口だったのだ。

拝殿前に立って手を合わせる。
ここは狛犬の代わりにきつねの石像が参道を守っている。
手を合わせてから顔を上げると拝殿の扉に以下の文言が書かれた紙が張り出されていた。

「平成三十一年 初午祭 御宣託 早稲六分七厘、中稲六分0厘、晩稲六分八厘」

初めて目にするものだけど、字面を読めば何となく意味が伝わってくる。
稲の出来不出来の予測(占い)のようだ。
神社までの道のりには田んぼが多く、農家の方にとって作物の出来は気になるところだ。
それが占いの結果であるとすれば、細かい数字まで出してしまうところに神の国、出雲らしさを感じる。
当社の祭神には倉稲魂命が入っているそうだから、上の占いからして「登載外の神社」である「食師の社」のお祭りのようだ。
僕にとって初「非神祇官社」である(とくに大きな感動はないけど)。

「式内社調査報告」によれば意多伎神社の祭神は大国主命。
同じく合祀されている太田命は、「延喜式」で当社の次に記載されている同社坐御譯神社の祭神であるとされる。

写真は島根県安来市。

190518意多伎神社2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・志保美神社。

190530志保美神社2

一言でいえばシンプルな境内である。

鳥居もなく境内と隣接する田んぼや伯太川の堤防との境界もあいまいである。
本殿と歳徳神を納めた堂、日御崎神社の小祠、そして玉垣に囲われた老樹のある範囲が境内ということになる。

志保美神社は「出雲国風土記」では「斯保弥の社」として記載されている式内社ではあるが、古い社や鬱蒼とした社叢など、いかにも古社然とした雰囲気は見られない。
半面、古社の重厚に支配されない軽やかさでみたされている。

変形の大社造に唐破風っぽい破風がせり出した本殿。
拝殿もないので、いつもするように歩数を測ることなくまずは参拝。
目の前の田んぼからはうるさいくらいカエルの鳴き声が響いている。

そういえば神社に来る前、伯太川沿いをFATBIKEで走っていたら、道端に一メートルほどのヘビがいて、近づくと草むらのなかに逃げていった。
黒っぽい姿だったからアオダイショウだろう。
カエルの鳴き声の多さからすれば、ここら辺りを寝ぐらにしていればエサに不自由することはなさそうだ。

境内には荒神さんと思われる巨樹が玉垣内に神木としてまつられている。
近寄ると玉垣に注連縄が吊るされ、根元に近い幹にはぽっかり穴が空いている。
樹齢は相当なものだと思うが、青々とした葉を茂らせており樹勢の衰えは感じられない。
根元には御幣が供えられ、穴のなかには「寛政七年」と文字が刻まれた石が置かれていた。

僕は松江に行くまで、出雲の荒神さんについてはネットの写真で見たことがある程度で、ほとんど知らなかった。
式内社を巡るうちにどこの神社の境内にもだいたい鎮座することから興味を覚えた。
荒神さんにはその神社のなかでも巨樹老樹を神木とするものもあれば、境内から山に入り巨樹ではないが神木として扱われているであろう木だったり、また古そうな自然石であったり、「荒神」と刻まれた明らかに最近まつり始めたであろう新しい石もあった。
しかも木には藁蛇を巻いたりする独特な習俗がある。
荒神はその名のごとく荒ぶる神であり本来は祟りが怖い神さまである。
しかしいつしか心ひかれ、神社を訪ねると境内にどんな荒神さんがまつられているのかを探すのが楽しみ、というかひとつの習慣のようになった。

これまでも神としてまつられる森や木を訪ねたことがある。
なかでも福井県若狭地方を歩いていたときに目にした森はここの荒神さんと似ていた。
その森はお店の駐車場にあった。
おそらく一本の木なのだろうが、玉垣で囲われ、森の入り口には小さな鳥居が立っており、鳥居の中心には御幣が立てられていた。
それが何をまつるものなのか分からず通り過ぎてしまったが、若狭湾の大島には「ニソの杜」という有名な森神がまつられていることから、関係がある森神の仲間なのかもしれない。

森神のことが気になり「森の神の民俗誌」という本を引っ張り出してきた。

「「ジノッサン」と呼ばれる地主神信仰と習合した地主荒神が、丹波から若狭にかけて点在し、タモ(タブ)や椎の森、内陸部では杉や櫟の巨木がまつられている」

解説に書かれた言葉だ。
やっぱり似ている。

写真は島根県安来市。

190530志保美神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・同社坐韓國伊太氐神社

190518佐久多神社嘉羅久利1

安来市の広瀬中央公園東側出入口近くに鎮座する嘉羅久利神社。

入口の鳥居をくぐり境内へ入る。
狛犬や石垣は苔むしていて、小さな神社だけど古社然とした雰囲気を醸し出していた。
拝殿まで35歩。
途中、手を清めようと手水舍の前で立ち止まる。

水のなかにひしゃくが入ってしまっていたので取り出し、手を清めた。
その後、手水のなかに浮いていた落ち葉をひしゃくで取り払ったところ、ひしゃくの柄が折れてしまった。
長い時間、水のなかに浸かっていたから腐っていたのかもしれない。
でも折ったのは僕なので、お賽銭をいつもより多めに入れ、「ごめんなさ」と一言つぶやき参拝した。

嘉羅久利神社だけに何かカラクリでもあるのかなとバカなことを考えながら、それほど広くはない境内をくるっと一周。
建物は拝殿と本殿、そして社務所くらいで、社殿を持たない摂社として玉垣に囲まれた神木があった。
樹種は分からないが濃緑の葉を茂らせている。
手前にはスペースが空いているので、ここで祭事を行うのかもしれない。

拝殿の破風下を見上げると「嘉羅久利神社 佐久多神社」と社名が二列に記された扁額が吊るされていた。
当社も佐久多神社の論社とされるが、社名の順からすると主神は嘉羅久利神社にあるようだ。

「式内社調査報告」には嘉羅久利神社について「韓国伊太氐神社→加栗→嘉羅久利の訛転」と書かれていた。
ちなみに加栗とは嘉羅久利の前にこう表記されていた時期があったそうだ。
でも「延喜式」の順番だと佐久多神社の次に同社坐韓国伊太氐神社が記載されている。
社名の「同社」とは佐久多神社のことだから一緒にまつられていても不思議ではないけど、嘉羅久利神社を同社坐韓国伊太氐神社であるとするならば、主神は佐久多神社のはず。
順番がおかしい。

出雲国にしか見られない「カラクニイタテ神社」(意宇郡と出雲郡では表記が異なるため瀧音能之は著書でこう書いている)は謎に満ちた神社だ。
これまで見てきた通り玉作湯神社は合祀、揖夜神社では摂社という形態でまつられていた。
「同社坐」とは字面だけ見ると「同じ場所に鎮座する」と受け止めることができる。
ただその「場所」が同じ社殿内なのか、同じ境内なのかで理解は違ってくる。
そう考えると玉作湯神社の場合は前者で揖夜神社の場合は後者になる。
もっとも創建当時とは形態が変わっているだろうからなんともいえない。

佐久多神社、同社坐韓国伊太氐神社の両社について執筆された興茂利先生は来待に鎮座する日御崎神社案を取られている。
ただ、もし本当に嘉羅久利神社が「韓国伊太氐神社→加栗→嘉羅久利の訛転」ということであれば、嘉羅久利神社は韓国伊太氐神社にルーツを持つ独立した神社で、かつ主客が逆転した事例、ということになると思う。

式内社巡りは楽しいが、社名について思いを巡らすと頭が痛くなる。

写真は島根県安来市。

190518佐久多神社嘉羅久利3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國意宇郡・佐久多神社

190513佐久多神社日御崎1

意宇郡・佐久多神社には二社の論社が存在する。
日御崎神社と嘉羅久利神社である。

日御崎神社は先に訪れた来待神社の対面にある丘に、一方の嘉羅久利神社は現在、安来市となっている広瀬町の広瀬中央公園横に鎮座する。
厳密にいえば嘉羅久利神社に合祀された佐久多神社が論社ということになるのだが。

両社の距離について名古屋にいるころには実感できなかったけど、松江での「プチ移住」生活にも慣れ土地勘がつき始めてきたころ、二つの神社の所在地があまりにも離れて過ぎていることに、思わず「本当か?」と声を上げてしまった。
簡単にいえば日御崎神社はJR山陰線来待駅が近いし、嘉羅久利神社は同安来駅が、近いわけではないが最寄りである。
ちなみに「式内社調査報告」で佐久多神社の項を執筆された興茂利先生は日御崎神社説をとっている。

来待神社の石段を降り民家と田んぼが広がる部分に戻る。
その部分を谷とすれば、谷を挟んだ対面の小高い山の中腹に日御崎神社は鎮座する。
社名が刻まれた標柱はなく、鳥居は参道である石段を上がる途中に立っていた。
鳥居をくぐりしばらく石段を上がると広場に出た。
拝殿のない社殿はこちらを向いて建っている。
大社造が多いこの地方には珍しい流造の社殿だ。
まずは参拝。

式内社と目される神社にしては社殿と倉庫のような建物があるだけでとくに見るべきものがないのは、明治期に吹き荒れた神社合祀令の影響のようだ。
その際、いったんは来待本宮神社に合祀されたものの復旧の願いが強く、昭和二年に旧社殿を本宮神社の御旅所とし、さらに昭和三十二年には本宮神社の境外末社となりいまに至っている。
当社が式内佐久多神社と考えられることについて短時間訪れただけでは分からないから「式内社調査報告」を参考にすると、日御崎神社が鎮座する場所は現在の地名・上来待佐倉からも分かるようにもとは「佐久良」という地名であった。
それで社名である「佐久多」と「佐久良」は同じような音とみなされたこと、また当社で出土した「紐鏡」の側面に「佐久多社」と刻まれていたことから佐久多神社=日御崎神社というラインが結ばれた。

ただ問題があって、延喜式では佐久多神社の次に、玉作湯神社や揖夜神社と同様「同社坐韓国伊太氐神社」が明記されている。
それがもうひとつの嘉羅久利神社説が生まれた背景にもなった。

写真は島根県松江市。

190513佐久多神社日御崎3
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ブログについて
FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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