名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

愛知県

【旅の空から】“中根銅鐸”に会いにいく旅 その八

中根銅鐸が地元から消えるきっかけとなった金銭を巡るトラブル。

「新修名古屋市史」には当時、愛知県史蹟名勝天然記念物調査会主事であった小栗鉄次郎による関係者への聞き取りが記されている。

丹羽利吉の長男は当時のこととしてこう回想している。
・自分の家で二日間開帳して鐸を見せ賽銭九十六文上がった。
・粂三郎宅でも開帳した。
・総代が仲に入って郷倉に預け長持に入れて錠を下ろし鍵を粂三郎が保管していた。
・粂三郎は仲間とかたらって鐸を一つ撞くと一銭といって金儲けをした。

一方、粂三郎の娘は「世間でやかましくいうので御器所の新助という人と父と二人で白木綿で巻いて荷って、別院に持っていったが再び戻らなかった」と語っている。

発見者である二人は互いの家で銅鐸を開帳しあい賽銭という名の利益をあげた。
その後も金儲けが続き銅鐸は地域のトラブルメーカーになってしまったため、解決策として東別院への寄付を考えた。
当時の時代状況を考えると妥当なことだったのかもしれない。

【旅の空から】“中根銅鐸”に会いにいく旅 その七

里道工事の最中に丹羽利吉と小川粂三郎によって掘り出された銅鐸は地区の総代、小川幸七によって役所に届けられたものの、地元に下げ渡されたとは前回書いた通りである。

「市史」によれば再び地元に戻ってきた銅鐸は初めは丹羽宅に次に小川宅に、その後は郷倉内に保管先を移したという。

普段は郷倉のなかに納められた銅鐸は「宝鐸如来」としてまつられ、発見日である二月二十七日に公開されることになる。
年に一回の公開日以外には郷倉に納めてあったので見ることができなかったわけだ。

明治七年、現在の東別院で開催された博覧会に宝鐸として出展された。
そしてなぜかその後、東別院に寄付された銅鐸は本山に渡り名古屋から消えてしまった。

地元にあったのはほんの数年。
しかしなぜ消えたのか。

「地元から東本願寺名古屋別院へと移っていった背景には、開帳による賽銭をめぐって地元に何らかの混乱が生じていたことも影響していたのではないか」

消えた理由に金銭がらみの混乱があったことを「市史」は書いている。

【旅の空から】“中根銅鐸”に会いにいく旅 その四

「新修名古屋市史」には市内各地の遺跡の説明に加え、別枠で名古屋の銅鐸を紹介するページがあった。
ここでは名古屋市内で出土された銅鐸及び銅鐸鋳型について出土時の状況や特長などが説明されている。

とはいえ完全な形で出土した銅鐸は二体、うち一体が中根銅鐸で、もう一体は「伝名古屋城濠銅鐸」という長い名前の銅鐸である。

しかし二体とも考古学者の発掘調査をへて出土したものではない。
とくに後者は鐸名に「伝」と冠がついているだけに発見の時期と経緯については不明である。

さて目的の中根銅鐸については結構な分量を割いて説明している。
ざっと目を通してみると僕が知りたい、名古屋になくて兵庫県に存在する理由も書かれていた。
しかしその内容は正直、えっと思わずにいられないものだ。

中根銅鐸が発見されたのは明治三年二月二十七日、つまり江戸時代が終わり維新をへて明治という新時代に入って間もない時期だ。
そのころ、僕の地元では銅鐸を通して、いや銅鐸が出たことが“事件”となってしまったのである。

【旅の空から】“中根銅鐸” に会いにいく旅 その二

銅鐸の出た中根学区に住みながら、本物の中根銅鐸を今まで一度も見たことがなかった。

かすかな記憶だけど、小学校卒業前、校長先生にあいさつするため校長室を訪れたことがあった。
校長室に入るとケースに入れられた銅鐸が展示してあった。
僕のイメージと違い案外と小さなものだったが、銅鐸に釘付けだった。
やはり大切な銅鐸だけに校長先生が保管するんだ、と思ったものである。
しかし校長先生からは「これは本物じゃないよ」といわれ残念な気がした。

さらに後日知ったことだが、体育館の壁面に飾られた銅鐸は本物から鋳型を取って作られたレプリカなんだそうだ。

その後、地元から出た出土品なら博物館にあるはずだと何度か名古屋市博物館にも行ったが、そこにも本物は展示されていないし、また見た記憶もない。
学区から出土したにもかかわらず地元にないなんて、一体いまどこに…

現在の所在地についても公民館前の説明板にこう書かれている。

「現在、兵庫県辰馬考古資料館が所蔵し、国の重要文化財に指定されている」

なんでまた兵庫県にあるんだろう。
何か事情があったに違いないが...

【愛知・名古屋市】巨木・神木・クスノキさん その二

141130中川区若宮八幡タブノキ4

「能登に行こう」

そう思ったのは、山形健介著「タブノキ」内に紹介されているエピソードを読んだときだった。

民俗学者で、歌人の釈迢空としても有名な折口信夫。
彼は1937年の夏、池田弥三郎ら弟子を伴って北陸を旅した。
富山県の高岡から氷見など能登半島の東海岸を歩き、山を越えて石川県の七尾方面へ。
南下し羽咋市の気多神社も訪れている。

折口と弟子たちは氷見から中能登へ抜ける峠でタブノキを見た。

「七尾へ越える峠に、大きくパァーッと突き出したタブがあった」

折口は著書「古代研究」の挿画としてもタブノキの写真を多く掲載しており、強い関心を持っていた。
能登行は弟子たちにタブノキを見せておくための旅だったといわれる。

僕は77年前に行われた旅をたどってみたい、たどれなくとも折口が能登でタブノキに感じた何かを、自分なりに感じてみたくなった。
彼らが峠を越えて見たタブノキは詳細には語られていないが、七尾方面への途中に「長坂の大いぬぐす」と呼ばれるタブノキの巨樹がある。
また能登はタブノキの多い地域で、行政区域を越えて「能登の木」とする動きもあるようだ。

写真は愛知県名古屋市。

【愛知・名古屋市】巨木・神木・クスノキさん その二

141130中川区若宮八幡タブノキ1

タブノキは、同じクスノキ科であるクスノキとは対照的に、市内ではあまりお目にかからない木である。

名古屋市内の巨樹ランキングを掲載している「なごやの名木」を見ても、ベスト10にランクインしている木のほとんどがクスノキである。

各区別の巨樹一覧ではクスノキ率がやや緩和されるもののタブノキは出てこず、「樹種別最大樹一覧表」になってようやく登場した。

中川区小塚町。
八熊通の南側にある若宮八幡社は仕事で近くを通るものの、境内に入ったことはなかった。
鳥居をくぐってまず目につくのはイチョウやケヤキといった落葉樹である。
九月には葉をたくさんつけていたが、十一月ともなるとイチョウは明るい黄色の葉が幹を包み込み、ケヤキは枝から葉を落とし逆さに立てたホウキのようだ。

本殿裏の北西角に幹の太い木がどっしりと立っていた。
根元に保存樹と書かれた杭があり、ようやくタブノキであると分かった。
枝が横に広がった御園のタブノキとは趣が違い、背は高く、注連縄こそ巻かれてはいないが本殿近くにあることから、「境内の主」的存在である。

写真は愛知県名古屋市。

【愛知・名古屋市】巨木・神木・クスノキさん その二

141130中区御園タブノキ6

伏見通沿いの歩道からタブノキを見上げてみた。

同じ常緑樹とはいえ中央分離帯に植えられたクスノキとはどこか趣が違う。
クスノキの葉は黄緑色で明るい緑なのに対し、タブノキの葉は濃緑色をしており暗い緑である。
そのせいか木が植えられている辺りは明るくても木立のなかは暗く感じる。

タブノキは墓場などにも植えられるため、ひとの死に関わりある木としてあまり好まれないこともあるらしい。
若狭で見たニソの杜は祖先をまつった葬地でもあるという。

幹は根元から二つに分かれており、地上三mくらいの所でくっついている。
ちょうどその位置に注連縄が巻かれ、鉄製のポールが幹と太い枝を支えている。

「昔から白蛇が宿る神木として、また川の船着場の守り神として大事にされてきた」

山形健介著「タブノキ」にはこう紹介されている。
太い幹、そこから伸びる曲がりくねった枝は蛇を想像させる。
また樹幹に空いた洞は、なかに蛇がいてもおかしくない雰囲気を醸し出している。

写真は愛知県名古屋市。

【旅の空から】FATBIKE がやってきた!  NO BIKE NO LIFE のフォークロア

小学生時代から自転車が好きだった僕にとって、新しい自転車が届く日は、特別な日である。

自転車はいつも転機を与えてくれた。
資料に掲載されていた名古屋市内の屋根神さまを訪ねるときも、屋根神さまの祭礼を訪れるときも自転車は僕を助けてくれた。
地下鉄や名鉄を利用しながら市内の狭い区域を回るのに強い力を発揮してくれた折りたたみ自転車は現在、三代目である。

ここ数年の僕は自転車よりも歩く方が便利と思うになった。
自転車とはいえ、ある程度のスピードは出る。
それさえ速いと思うようになった。
自転車に乗っていたときの僕は、過ぎてしまった風景を二度と戻ろうとしなかった、戻るのが面倒くさかった...

大学時代の友人がSNSに上げた投稿を見て、何となく自転車っていいな、と感じることがあった。
間を置かずアウトドアショップで展示してあるMTBを目にする機会があり、最新のモデルに感激する一方、進化しすぎたその形に疑問を感じた。

自転車は素敵だ。
でもロードバイクのように速いものはいらないし、前後にサスペンションがある必要もない。
速く走れず、山ノ神や野神、道祖神に会いに行ける自転車なんて、あるのだろうか...

【愛知・名古屋市】巨木・神木・クスノキさん その二

141130中区御園タブノキ3

朝なお暗い「街角の聖地」...

樫ノ木龍神にそんな言葉が思い浮かんだ。
植えられている木々、名前の通りカシの木が中心となっているせいか、生い茂る境内はうっそうとしている。

クスノキが中心だったらどうだろう。
たびたび寄ることのある神社は境内のいたるところにクスノキが植えられており、外観はいまにも激しい雨でも降らせてもおかしくないくらい、緑の積乱雲が発達している状態である。
それくらい樹勢が活発なのだ。

直射日光が遮られるのでひんやりとしてはいるが、葉が薄いのかそれとも葉と葉の間が適度に空いているのか、「欝蒼」というほどではない印象だ。
植物に疎い僕の気のせいかもしれないが...

地下鉄伏見駅を出て白川公園へと向かう歩道を歩いていると突然、柵で囲われた小島が現われる。

とはいえ遠くからでも木が植えられていることは確認できる。
しかし車道に植えられた街路樹とは明らかに異質な木である。
木の下に来るとたちまち日光が遮られ、まるで小さな森のようだ。

写真は愛知県名古屋市。

【愛知・名古屋市】巨木・神木・クスノキさん その二

141130西区城西樫ノ木龍神


西区浄心の宗像神社をあとにして、さらに一ヶ所、訪れたいところがあった。

浄心の交差点南西側。
高速道路が上を走る江川線を西に一本入った通りでは、六月に「弁天祭」が開催される。

「弁天祭」は、もとは屋根神さま、というより六月〜七月にかけて各地で祭礼が営まれる津島神社のお祭、つまり天王祭である。

しかし残念ながら西区城西界隈では現在、屋根神さまはほとんど見られない。
八百屋さんの建物の二階部分にまつられていた神さまも数年前になくなってしまい、いまでは主人のいないスペースが残るだけだ。

その向かい側にちょっとした杜があったのを思い出した。

「樫ノ木龍神」

鬱蒼と繁った木々に埋もれた鳥居をくぐりなかに入る。
杜には社名の書かれた提灯を吊った社を中心に三社がまつられていた。

朝日の入り込まない境内は異質な空間である。
常緑樹の重い緑の葉が重なりあったなかにいると、寒さとは違うひんやり感がある。
杜の暗さ、冷たさは外の世界とは明らかに違う空間。
「街角の聖地」、そんな言葉を思いついた。

写真は愛知県名古屋市。
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ブログについて
FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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管理人紹介
1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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