名古屋発! 町の神さま考

FATBIKEで巡る古社巡礼の旅...

松江市

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・大野津神社。

190517大野津神社1

出雲国の神社のなかで宍道湖に一番近い神社、といってもいいかもしれない。
なぜなら境内から湖に降りるための階段があるから。

一畑電車一畑口駅外側のベンチを借りて昼食をとったあと、再びペダルを漕ぎ向かったのは大野津神社。
駅からいったん宍道湖岸に出てそのまま線路と宍道湖の間を通る国道431線を松江方面へ走ると右手に森が見えてきた。
ちょうど津の森駅のすぐ南側である。

ちなみに駅名の「津の森」とは当社のことで「舟着場附近の湖岸に樹林があったことから生まれた地名で、現在もこの附近は「津の森」と呼んでゐる」と「式内社調査報告」には書かれている。
冒頭の境内から湖に降りるための階段とは船着場の名残かもしれず、手前にある常夜灯は灯台のような機能があったのかもしれない。

入口の玉垣にFATBIKEを立てかけ、鳥居をくぐり正面の拝殿まで20歩、まずは参拝。
拝殿に向かって左側に荒神さんがまつられている。
その辺りは小さな森になっているけど、山中や山の際にある神社のように鬱蒼としておらず、また胴回りの太い巨樹も見られない。

祭神は須佐之男命。
由緒によると当地は宍道湖北岸の重要な港であり海陸交通の守護神という機能と、干ばつのときには雨乞いを祈願する農耕神としての機能があるとされる。

興味深いのは干ばつ時に斎行された雨乞神事だ。
神事について由緒に書かれた内容を要約すると以下の通り。

→神主は斎戒して社殿に上がり二夜三日の祈願と称して三日連続の祈願を行う。
→神社に納められている蛇骨を出して飾り蛇頭を正面に安置。神主はそれに向かって大祓祝詞を上げて祈願。
→三日目の朝、蛇骨の一部を竹カゴ二個に納め鳥居のついた箱形の台に乗せ湖岸に運び、待機する四艘の船のうち一艘に安置して神職と供奉員が同船、もう一艘の衣裳船には楽師たち、二艘には各集落より選ばれた若者たちが乗り、湖上へと漕ぎ出す。
→船は湖上を西南方向へ漕ぎ出し、宍道湖の南北にある四つの山々を結ぶ線上で湖底に石の鳥居があると伝えられる場所に到達する。
→船の正面に安置した蛇骨の前で神職の祝詞が奏ぜられ、次に蛇骨が入ったカゴに白木綿をかぶせ湖底に下ろす。
→ひとしきりの雅楽を奏じたあと、神職、供奉員、そして若者たちは裸体になる。若者たちが乗った船は神職・供奉員が乗った船の両脇に漕ぎ寄せ、水桶に水を汲んで神職たちに浴びせかける。
→神職・供奉員を乗せた船の漕ぎ手は逃れようと、また若者たちの船も逃すまいと懸命に漕ぐ。
→神職たちは激しい水飛沫に息も止まるばかりとなり悲鳴を上げると水を浴びせるのをやめ、一同身体を拭き元の装束を着け神社を目指し、無言のままで帰途につく。
→神社の境内が見えてくるころになると晴天が続いた空の一角に暗雲がたちこめ、待望の雨が降り始める。

近年だと昭和九年と十四年に行われたが、灌漑施設が整い作付けが早くなった現在では干ばつが起こりにくくなったのでこの神事は行われていないそうだ。

それにしても神事に出てくる蛇骨とは一体どんな姿をしたものだろうと気にかかる。
飾り付けた蛇骨の蛇頭を正面に安置する場面からはとぐろを巻いた蛇の姿を保った状態のようにも考えられるけど、蛇骨の一部を竹カゴ二個に納めることからすると分離可能な状態(そんな状態があるのかどうか)かとも...由緒には絵や写真が載せられていない以上、想像するしかない。

写真は島根県松江市。

190517大野津神社5

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・許曽志神社。

190517許曽志神社1

許曽志神社の境内に入り不思議に感じるのは狛犬の代わりに鶏や猿の置物があることだ。
猿については当社の祭神が猿田彦命であることが理由と思われるけど、鶏についてはどうしてだろう。
もしかして社名に関係があるのかなとも思ったりする。

式内社には当社の社名のように「許曽」や「小曽」など「コソ」とつく神社がいくつかある
「日本のなかの朝鮮文化」で著者の金達寿氏は「コソ」が神社を指す言葉であり(実際パソコンでコソを変換すると「社」が出る)、その語源について新羅の王である「赫居世」から来ているのでは、と書いている。
赫(ヒョク)が名前で居世(コセ)が治世を指すという。
新羅には始祖伝承にも鶏が登場し、さらに王宮は鶏林にあることから鶏を神聖視していた。
日本でも越前・敦賀半島先端に鎮座する白城神社のある白木集落では鶏を食べないという風習が近年まで残っていたそうだ。

また扁額に「白鬚神社」とあるのは祭神の猿田彦命に通じるからと思われるが、白鬚神社も新羅と関係がある神社。
敦賀と同じく越前・今庄には新羅神社を上宮、白鬚神社を下宮と呼ぶことが岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」で触れられている。
僕も実際に現地を訪れ地元のひとから「朝鮮から来た神さまですよ」と教えられた。

だからといって新羅の王の名と「コソ」、白鬚神社と鶏の置物が即、結びつくのかは僕にはよく分からない。
ただ、位置的に越前よりも新羅に近い出雲にそういった伝承が残っていたとしても不思議ではないし、むしろロマンを感じる。

神社は宍道湖北側の山の中腹に鎮座している。
鳥居をくぐり拝殿まで180歩、まずは参拝。
「式内社調査報告」によると、江戸時代の中ごろまでは現在よりも南方200mの平坦地にあったが、貞享元年(1684)四月に現在地に遷座したという。
もとはいまよりももっと宍道湖に近かったというわけだ。

ちなみに神社の近くには丹花庵古墳や「古墳の丘古曽志公園」があって、公園には実物大に復元された古曽志大谷一号墳がある。
墳面が葺き石に覆われ埴輪が囲う前方後方墳だ。

そういえば「コソ」つながりで伊勢国の大乃己所神社周辺には遺跡があることを思い出した。
「コソ」とつく土地には人々が集う場所があった。
それは共通の祖神である氏神をまつった場所、つまり神社だったとはちと強引な推測かもしれない。
でも古くからひとが暮らしていた土地という共通点があることは確かだ。

それにしても、出雲国の古社巡礼で神社とともに古墳を訪ねることを無上の楽しみとしながら、なぜ古墳公園に行かなかったのだろう。
松江「プチ移住」で後悔したことはそれほど多くはないけど、なぜ神社の帰りに古墳公園に寄らなかったのか…
いまとなってはかなり後悔している。

190517許曽志神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・惠曇神社。

190509恵曇神社恵曇町1

惠曇神社には論社がある。
つまりもう一ヶ所、同じく惠曇神社が存在するのだ。
境内に本殿とは別に「座王さん」という磐座がある神社に感動したばかりなのにもう一社あるとは。

最初の惠曇神社を出て佐陀川沿いを西に向かうと漁港に出た。
惠曇港である。

青空とともに青い海が目の前に広がる。
ここに来た記念、やはり写真でしょう。.
そう思ってFATBIKEをブロックに立てかけようとするが強い風がビュービュー吹いている。
立てかけても風ですぐに倒されてしまう。
何度か挑戦してみても同じ結果なのであきらめて神社に向かうことにした。

二番目の惠曇神社は漁港近くに鎮座する。
鳥居前にFATBIKEを立てかけて写真を撮っていると、気のせいかもしれないが近くに止まった車がアイドリングしたまま止まっているのが気になった。
車内にひとの姿があったどうかまでは見えなかったけど、監視されているようで気持ち悪かった。

平日の日中にタイヤの太い自転車に乗っている中年の男は自分で考えても怪しいと思う。
じつは、仕事を休職して「プチ移住」で松江に来てるんです、という事情は表面的には絶対に伝わっていない。
監視者側からすれば何の情報もないからとりあえず監視するというしかないのだろう。

取り越し苦労かもしれないがそう感じたのは、惠曇神社がある場所から山塊を越えれば島根原発があるからだ。
数年前、福井県おおい町に森の神さまをまつる「ニソの杜」を見に行ったことがあった。
大島半島内の「ニソの杜」の所在地を確認しながら写真を撮っていた。
ある森で写真を撮ろうとしたら突然車が目の前に停車し、なかから警備会社の制服に身を包んだ男たちが出てきた。
原発近くで怪しい動きをする男(僕ですが)と思われたらしい。
ニソの杜という森神がありそれを見るために訪ねてきた旨を話すと警備氏たちは納得して離れた、という経緯がある。
それが記憶に残っているので今回ももしや、と思ったのだ。

入口の鳥居をくぐり拝殿まで七十歩、まずは参拝。
本殿の彫刻はとても立派で、見たところ竜、鳳凰、鶴などが生き生きとした姿で彫られている。
「式内者調査報告」によると前述の惠曇神社とは正統性を巡って論争があったという。
確かに海には近いし山を背景にした境内に古社然とした雰囲気を感じないでもない。

でもスッキリし過ぎている、これはひとりの旅人としての意見。
やはり「座王さん」に驚かされたようなサプライズ感には乏しいかな...

写真は島根県松江市。

190509恵曇神社恵曇町3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・惠曇神社。

190509恵曇神社座王さん1

「出雲国風土記」では惠曇郷についてこのように書かれている

「須佐能乎命の御子、磐坂日子命、国巡行り坐しし時、此処に至り坐して詔りたまひしく、「此処は、国稚く美好く有り。国形、画鞆の如き哉。吾が宮は、是処に造事らむは」故、惠伴と云ふ」

松江での生活で何かとお世話になった荻原千鶴全訳注「出雲国風土記」で現代語訳を見ると以下の通り。

「須佐能乎命の御子、磐坂日子命が国をめぐりなさったときに、ここにいらしておっしゃったことには、「ここは国が若々しく美しいところだ。地形はまるで画鞆のようだなあ。わたしの宮はここに造ることにしよう」だから、惠伴という」

磐坂日子命が目の前に広がる風景の美しさに感動し「画鞆」のようだ、といったことからこの土地は「惠伴」になったという地名譚として描かれている。

その「画鞆」について、同書のなかでは未詳としている。
広辞苑で「鞆」を引くと「弓を射る時に、左手首内側につけ、弦が釧(くしろ)などに触れるのを防ぐ、丸い革製の具」とある。
絵が書かれた鞆が「画鞆」なのか、鞆の丸みを帯びた形が惠曇の地形と似ているからなのかどとらか判然とはしないけど、目の前の景色が美しいと感じたから命は自分用の宮を造ろうと思ったことは確かだ。

惠曇神社を訪ねた当日は五月晴れ、ペダルを漕ぐたびに額に汗が落ち、降り注ぐ日光を浴びる背中はすでに汗びっしょりだ。
それでも海が近いせいか吹く風が心地よい。
日本海に注ぐ佐陀川に沿って走っていくと目印である松江市鹿島支所の建物を見つけた。
地図によると神社はその裏手側に鎮座する。

民家に挟まれた細い路地の入口に鳥居が立っていた。
その先にある石段を上がっていき隋神門をくぐると正面に拝殿が建っている。
そこまで170歩、まずは参拝。

拝本殿が鎮座する場所の右側には山側に入るための階段がある。
一度、平坦になった場所からさらに上がると斜面からせり出してきつ立する三つの巨大な石が目の前に現れた。
「座王さん」と名づけられた巨岩には注連縄が張られ地面には串幣がまつられている。
拝殿の後方に本殿があるにはあるが、「座王さん」の姿を見てしまうと人工的な建物が仮の社のように思えてくる。
その迫力にひれ伏すように手を合わせた。

これまでにも巨岩を御神体としてまつる神社をいくつか目にしたことがある。
神が宿る石というわけだが、この座王さん、注連縄が張られてはいるが御神体というよりその名の通り、王が座った石という解釈の方がしっくりくる。
説明によると祭神である磐坂日子命が国巡りの際に腰掛けた石と伝わる。

巨岩に座った命の目線には、山と山に挟まれ緑豊かで、しかも丸みを帯びた海岸線を持つ海が近い郷が映っている。
まだだれの支配も固まっておらず海の幸も山の幸も豊富な郷だからこそこの地に自らの宮を建てようとしたのでは。
そんな勝手な想像を可能にするほどの巨岩である。

写真は島根県松江市。

190509恵曇神社佐陀1

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・内神社。

190517内神社4

松江を拠点に出雲国の式内社を訪ねるに当たり、一畑電車とJRには本当にお世話になった。
宍道湖の南岸近くに鎮座する神社を訪ねるときはJRを、北岸を訪ねる場合は一畑電車を、と役割が分担されていた。
いま考えると山陰本線だけでなく木次線にもお世話になっているからJRの方が多いかな。

一方の一畑電車にはJRにないメリットがある。
普通、電車に自転車を載せようとすると輪行といって車体を分解して専用の輪行袋に入れなくてはいけない。
JRは輪行が当たり前なのだけど、一畑電車の場合はそのままでOKなのだ。
しかも自転車持ち込みの回数券まで販売しているから買わない手はない。

現在、内神社と呼ばれる神社の最寄駅は一畑電車の高の宮駅である。
と、ここまで一畑電車の話をしておきながら、内神社を訪ねたときは電車を利用せず、島根半島の中間部分をひぃひぃいいながらFATBIKEで回っていた。
高の宮駅の存在を意識したのは内神社に行こうとしてではなく、行った後のことである。
一畑電車の話をしたのは駅が近いというだけで、僕の一畑電車愛が語らせただけである。

内神社は同じく秋鹿郡の神社を回った日に訪ねた。
宍道湖岸に鎮座する大野津神社から一路内陸に向かった。
平坦な道が次第に上り坂になっていったので、グルグルと蛇行しながら少しずつ上っていく。
「高野宮0.5km」の標識が見えてきたのでそろそろかと内心喜んだところ、そこからは今まで以上の斜度の上り坂。
高野宮というのは純粋に高いところにある神社ではないかと思いながらペダルを漕いだ。
メモ帳にもそのときの気持ちを「マジカヨ」とカタカナで表現している。
よほどきつい坂だったのだろう。

ようやく鳥居が立つ境内の入口に到着、反対側を振り向いて思わず息を飲んだ。
高野宮はやはり高い場所にあるお宮で間違いないと思った。
そこから眺める風景は半端なく素晴らしかった。
島根半島中部の丘陵地に位置する内神社は頂上部分よりもやや南側に下った場所に鎮座している。
これまでの疲れが癒される。

鳥居をくぐって拝殿まで105歩、まずは参拝。
安政二年造営の本殿は出雲大社、佐太神社、神魂神社に次ぐ立派な建物というから、なかなかなものだ。

参拝後、境内を歩くと向かって右側の森が禁足地になっていた。
本殿背後の稲荷社を参拝しようと柏手を打つと、森のなかからサササっと音がした。獣が近くにいたのだと思う。
禁足地になった理由は「文禄二年、雷禍による本殿火災が発生した時、本殿からこの森に向けて線光が発せられた。人々はそれを見て神さまが遷られたのに相違ないものと考え、以後、この森を神聖な森として立ち入りを禁止した」からだという。

高い場所という行きにくいところであるせいか休憩所が併設されていた。
夏日の松江。
コーヒーをいただきながらひと息ついた。
由緒によると、祭神は和加布都主命と下照姫命。

写真は島根県松江市。

190517内神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・大井神社。

190509大井神社1

佐太神社参拝後、隣接する鹿島資料館で「鹿島町史」のページをめくっていたら町内にある神社の紹介に大井神社が掲載されていた。

大正四年に多久神社の飛地境内地となり同六年、多久神社に合祀されたが昭和二十六年に大井神社に再興した歴史が簡単に触れられていた。
その大井神社、地図上で見る限り山中にありそうで境内を探すのに難儀を強いられそうな予感がした。

佐太神社から日本海の方向に佐陀川を北上し、七日市の集落を入りしばらく走ると、丘陵地の入口に立つ鳥居が確認できた。
簡単に見つけ出すことができたからむしろあっけないくらいだ。
FATBIKEをとめて鳥居をくぐり山道のような参道を歩く。

拝殿に向かう途中、「式内大井神社跡」と刻まれた石碑が立っていた。
多久神社に合祀された際、大井神社の記憶を残すべく建てられたものだろう。
碑が立つ場所からさらに歩くと突き当たりに開けた場所があり、そこに建物が見えてきた。
石段を上がると拝殿があった。
入口の鳥居をくぐり拝殿まで175歩、まずは参拝。

いったんは他神社に合祀されたものの住民の宿願により再び再興を果たした神社である。
鎮座する社殿を前にし、なみなみならぬ思いを感じ深く頭を下げた。

森のなかには荒神さんがまつられていた。
神の森なんだなと思いながら、拝殿前の石段に座って森を眺めていた。
時折、吹く風が木々の隙間を通り抜け竹や木々を揺らす。
あたかも神がそこにいるような厳粛な気分だった。

写真は島根県松江市。

190509大井神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國秋鹿郡・佐陀神社。

190509佐陀神社3

松江に暮らしながらFATBIKEで神社を訪ねまくったひと月間。
多くの神社を参拝したものの、お守りやお札を買うことはほとんどなかった。
訪ねた先で買ってばかりいてはお金がもたないし、コレンクションで買い求めるような類いのものじゃないから神さまに失礼じゃないかと考えてである。
でもまったく買っていないわけではなく、揖夜神社では妻にお守りを、ゆいいつのお札は佐太神社で受けた。

「出雲佐太 火災水難防禦 守護」

受けるつもりではなかったけど、並べられているお札を見て、これはと思い買い求めた。
目を引いたのは文字とともに刷られた蛇の姿で、榊のような葉の上にとぐろを巻いている。

お札から話は飛ぶが、佐太神社で舞われる「佐陀神能」についての展示を隣接する鹿島民俗資料館で見学した。
演目「大社」(おそらく)の一場面を再現した展示で老人が手にしていたのはお札に描かれた蛇だった。
蛇は佐太神社の祭礼でも大きな役割があり、11月25日の「神在祭」(お忌み祭)では海に上がるウミヘビを「竜蛇さま」とし海神の使いとして崇めているという。

ウミヘビといってもピンとこず頭に浮かぶのはシマヘビやヤマカガシといった陸の蛇である。
「竜蛇さま」と呼ばれるそのウミヘビの正体はセグロウミヘビ。
ウィキペディアで調べたことをまとめると、「背中が黒く腹が黄色い。外洋に生息し、暖流に乗って日本近海までやって来る時期がちょうど出雲地方で「神在祭」が行われる時期に重なる。完全水棲種で遊泳力が強い半面、陸地に打ち上げられると身動きが取れず死んでしまうこともある。性質は凶暴で、人間を殺せるほど強力な神経毒を持っている」と、かなり怖い部類の蛇だ。
古代出雲人がセグロウミヘビの生態に熟知していたかどうかは分からないけど、陸の蛇でさえ異体ゆえ恐れられるのに、それが海から来るので余計に神々しく感じたことだろう。
出雲国の古社巡礼中にウミヘビまでを見ることはなかったが、蛇自体には何度か遭遇しているので、お札はある意味出雲らしいお札といえる。

松江の市街地から北西方向に走ると道路端に佐太神社への距離を示す看板が何度か立っていた。
「出雲国風土記」には「佐太の御子の社」、「延喜式」には「佐陀神社」としてそれぞれ秋鹿郡の筆頭として記載されている佐太神社だが「延喜式」では小社の扱い。
とはいえ「鎌倉時代には杵築大社に次ぐ、というよりまさに匹敵する社領を形成していた」(「日本の神々」)といい、神階も杵築、熊野の名神大社二社に次いでいたという。
実際に佐太神社を訪れ、広々とした境内に身を置くと、名神大社クラスではと錯覚してしまう。

入口の鳥居をくぐって真正面の拝殿まで175歩。
本殿は正中殿、南殿、北殿の三棟が並んで建てられている。
山の木々の緑を背景に三つの赤茶っぽい屋根の本殿。
お互いに色彩の近さはないけど、境内の厳粛な雰囲気が自然である山と人工物である社殿を一体化させていた。

三カ所の社を参拝してから「母儀人基社」を参った。
境内端の石段を上がるとちょうど本殿の裏手辺りの高台に出る。
社とはいえ柵で囲われたなかに鎮座するのはツバキの根元に積み重ねられた磐座だった。

手を合わせて改めて出雲の豊かさを思った。
佐太神社正中殿の祭神である佐太大神は母である枳佐加比売命が加賀の潜戸で産んだ神。
加賀の潜戸といえば海に面する岩に自然浸食による穴があいた神秘的な風景で知られる。
枳佐加比売命を祭神とする加賀神社は「潜戸明神」といわれていた。
つまり洞窟に対する信仰である。
そこに「竜蛇さま」の蛇神信仰、「母儀人基社」の磐座信仰といった自然に対する信仰が加わり豊かに根付いている佐太神社界隈。

なお、延喜式に記載されている日田、宇多紀、垂水の三式内社は佐太神社に合祀されている。

写真は島根県松江市。

190509佐陀神社1

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・美保神社。

190510美保神社1

雲ひとつない真っ青な空の下には日本海の大海原が広がっていた。
遮るものがない目の前の風景。

島根半島の先端に位置する美保関灯台から日本海を眺めていたら、通路にカンバスを立て絵筆を握った絵描きのおじさんに声をかけられ少し立ち話をした。

「自転車で来たの? どっから?」
「名古屋です。でもいま松江に住んでるんです」

てっきり地元のひとかと思いきや絵描きのおじさんは岡山出身。
日本全国を車で旅しながら気に入った場所で絵を描いているという。
震災以降は東北に通う回数が増えたと話していた。
当日の天気のように明るく屈託のない笑顔の絵描きさん。
そんな生き方もあるんだな、そう思い灯台をあとにした。

松江から中海と美保湾を右手に見ながら美保関にやってきた。
「松江から」と書いたけど現在は美保関町も松江市だから市内を移動したことになる。
市内といっても松江駅前の逗留先から三時間以上。
同じ松江市とはいえ端までやって来たわけだからそれなりに時間がかかるわけだ。

美保神社の前には鳥居の右手から「青石畳通り」というレトロ感漂う商店街が広がっていた。
とりあえず神社から参ろうと鳥居をくぐる。
石段を上がり拝殿までは165歩、まずは参拝といきたいところだが祈祷中のため、拝殿の外からそ様子を眺めていた。
どこかの会社のひとたちか、揃いの事務服姿で祝詞を読む神主の方向を向いてかしこまって座っている。

ご祈祷が引けたのを見計らい賽銭箱にお賽銭を入れて手を合わせた。
それにしても拝殿・本殿ともに巨大な建物だ。
来るのに難儀する島根半島の先端にどうしてこれほど大きな神社があるのか不思議である。
名神大社でないのは、古代よりも中世以降に隆盛したということなのだろうか。
大社造の本殿には向かって右に三穂津姫命、左側に事代主命をまつる。
二殿の間を「装束の間」でつないでいることから「美保造」とも呼ばれている。

神社でもらった略記には祭神として本殿に祀られた二柱を記しているが、「出雲国風土記」では嶋根郡美保の郷にこのように記載されている。

「天の下所造らしし大神命、高志の国に坐す神、意支都久辰為命の子、俾都久辰為命の子、奴奈宜波比売命に娶ひて、産ま令めし神、御穂須々美命、是の神坐す。故、美保と云ふ」

「風土記」上では美保神社にまつられているのは御穂須々美命ということになる。
名前からして後世、御穂須々美命から三穂津姫命に変わらざるをえない理由があったのかもしれない。

神社と灯台を訪れたあと、昼食をとるために五本松公園に登った。
FATBIKEを押して登ったけど、それほどきつい山ではない。
そこにぜひ訪れてみたい場所があった。
山頂に到達すると「御穂社」への行き先を記した看板が出ていた。
FATBIKEをとめて歩いて向かうと、社名の書かれた標柱が立ち鳥居奥の小さい本殿は最近建てられたような新しさが感じられた。

出雲の旅で参考にした本「古代出雲を歩く」には御穂須々美命をまつる神社として掲載されていた。
とりあえず手を合わせたが、ここに来たとて何かがあるわけではない。
でも巨大な拝本殿を持つ美保神社と同じであろう祭神をまつる神社がこう近くにあるのも不思議である。

なお、僕自身にとっても不思議なことがあった。
美保神社の鳥居前にわが故郷、名古屋ナンバーの車がとまっていたのだ。
「Youは何しに美保関へ?」と聞きたかったが、あいにく車の持ち主と会うことはなかった。

写真は島根県松江市。

190510美保神社3

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・生馬神社。

190509生馬神社西生馬1

東生馬の生馬神社を出て西生馬に向かう。
西ノ谷という小字の通り両側に丘をのぞむ谷筋の道を北上した。
周囲に神社らしい場所は見当たらない。

「まっすぐや、すぐ分かる。ごくろうさん」

用水を掃除していたおじさんに声をかけて場所を教えてもらった。
用水沿いの道をまっすぐ進むと突き当たりに鳥居が見えてきた。
ちょうど山と里の境界といったらいいだろうか。

神社の後方には小川があり、先ほど声をかけたおじさんが掃除していた用水の上流部分に当たる。

それよりも何よりも境内で目立つのは巨岩である。
鳥居をくぐるとすぐ左手に丸っこい岩が境内にせり出している。
東京名物「ひよこ」のようでどこか可愛らしい。

圧巻は本殿を支える巨岩だ。

拝殿で手を合わせてから裏手に回るとさらに大きな岩が本殿下から本殿を支えるように突き出している。
岩の頂部には賽銭の小銭が数枚奉納されていたので僕も一枚置いて改めて手を合わせた。

その場所から下をのぞき込んでも岩の全体像をうかがい知ることはできない。
岩全体の姿を見たかったので境内裏手の川が流れるところまで降りていった。

「凄すぎる」

驚きとともにため息が出た。
本殿下から露出する岩の大きさは半端ない。
境内は岩からできているんじゃないか、そう思った。

式内生馬神社は東生馬の神社に比定されているというが、それはもうどうでもよかった。

岩を前にしてここに神社の建物がなかった時代を想像する。
出雲の先人たちは地表からゴツゴツと露出する巨岩に聖なる感覚を抱き、そこに神を感じ、いつしか崇め奉るようになった。
そして聖地となり神社へと進化していった。

どこかの本の受け売りだけど、実際岩の前に立つとそんなことを考えてしまう。
それだけの迫力で見るものを圧倒する。

ちなみに入口の鳥居から拝殿までは33歩。
拝殿本殿ともに所々新しくなっていた。
平成三十年十一月に改修されたようだ。

写真は島根県松江市。

190509生馬神社西生馬2

【FATBIKE古社巡礼!】出雲國嶋根郡・生馬神社。

190509生馬神社東生馬2

小高い山が屏風のように並ぶその前には板チョコを敷きつめたように田んぼが広がっていた。
初夏を思わせるその日、トラクターが田んぼの土をかき混ぜていた。
その様子を遠目に見ながら、田んぼと田んぼの間の道をFATBIKEで走っていく。
通勤通学の時間帯にもかかわらず、ここまで来ると時間が止まっていた。
つい数十分前まで市街地で都会の光景を目にしていたけど、目の前に広がるのはのどかな風景だ。

松江市は松江城を中心とした平野部を過ぎると農村地帯に入る。
中心部から数十分の距離で町場とは違った風景に出会えること、それが松江のいいところであり貴重なところだと思う。

「式内社調査報告」によれば嶋根郡生馬神社は東生馬の神社をもって生馬神社としているようだが、お隣の西生馬にも生馬神社が存在する。
僕としては巨岩のある西生馬押しなのだけど、とにかくどちらにも行ってみなければ気が済まない。

まず先に東生馬の生馬神社へ向かった。
丘の中腹に鎮座する境内。
入口の鳥居をくぐり石段を上がる。
石段の途中に木製の鳥居と標柱が立っていて、そこには神社の由緒が掲げられていた。
随神門をくぐり拝殿まで95歩、まずは参拝。
背の高い木々に囲まれ古社の雰囲気を醸し出していた。
祭神は神魂命の御子である八尋鉾長依日子命。
境内を観察していると近隣のひとと思われる女性が境内にやって来た。
本殿で手を合わせると足早に境内を去って行った。

大社造の本殿後方には本殿を守るように椿の木が立っていた。
木製の柵に囲まれた椿の木の根元には編まれて長くなった藁が巻かれていた。
出雲の神社での定番、荒神さんの藁蛇に出会ったのはここ生馬神社が初めてである。
残念ながら顔は朽ちており、口を開いたヘビの表情までを見ることはできなかった。
その後、荒神さんの藁蛇が気になりチェックするようになったのも、ここが始まりだった。

写真は島根県松江市。

190509生馬神社東生馬4
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FATBIKEというタイヤの太い自転車に乗って延喜式内社を訪ねる旅に出ています。屋根神さまから式内社へ。自転車に乗って神社を訪ね、写真を撮りブログを書く、そんな楽しみに浸る毎日です!
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1973年7月生まれ。以前は名古屋や愛知県の屋根神さまを探しては写真に残していたが、2015年に岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」に触発されて敦賀市の式内白城神社を訪れたことから式内社に関心を持つ。現在は介護の現場で働く傍ら、各地の式内社をFATBIKEに乗って訪ねる日々を送っている。
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お知らせ
2016年8月現在、屋根神さまの残存確認は行っておらず、「市内屋根神所在地一覧」(2006年作成)に掲載されている屋根神さまのうちすでに消滅したお社もあると思われます。今のところ内容を更新する予定はありませんので、屋根神さまを訪ねる際は消滅したお社があることをご承知おきいただいた上で、「参考資料」としてご活用いただければと思います。
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